甲子園の風BACK NUMBER
2度の特攻出撃命令「ああ、助かった」甲子園の“伝説的監督”が迎えた終戦の日…池田高校・蔦文也が旧知の編集者に語った「特攻兵士たちの最後の飛行」
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近藤雅人Masahito Kondo
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/29 11:04
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
昭和20年6月に沖縄戦が終わった後は、国をあげて本土決戦の準備が始まった。しかしながら、本土決戦の前に、原子爆弾が二発落とされ、旧満州を始めとする北方からのソ連参戦が重なり、日本は窮地に追い込まれて、ポツダム宣言を受諾、終戦となった。本土決戦が回避されたために、それが既定の路線であったことに今の日本人は想像力が働かないが、戦争末期の2カ月間、日本人は最後の一人になるまで、竹ヤリをもってしてでも、米軍と戦い抜く覚悟でいた。各地で町会長たちが声高に決戦を呼びかけ、目を吊り上げた大日本婦人会(国民義勇隊)の主婦たちが跋扈していた。若者たちはみな生き残れるとは思っていなかった。戦争はけっして軍部の命令だけで行われたのではない。まさに国中が狂気にとり憑かれていた時代だった。
特攻要員であった蔦氏は戦争末期、各地の海軍基地を転々とし、昭和20年の夏の盛りに現在の奈良県天理市にあった大和海軍航空隊に移されていた。木製の白菊という練習機に爆弾を取り付けて体当たりするのが任務だった。洞窟に飛行機を隠し、基地の周りに塹壕を掘り、地下の指令室を作るなど、連日土木作業に精を出して敵の本土上陸を待ち構えていた。米軍が上陸してきたら白菊に乗って出撃し、体当たりする。すでに覚悟を決めていた。そして、運命の8月15日を迎えた。ラジオ放送で戦争が終わったことを知った時、蔦氏はほっとした。「ああ、助かった」と心の底から安堵したという。
終戦後、蔦が自由を実感した“ある瞬間”
蔦文也氏から聞いた終戦時のエピソードで印象深い話がある。
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昭和20年8月15日に戦争が終わり、蔦氏が除隊の指示を待っていたら、「上陸してくる米軍に対して武装解除する必要があるので、京都府の福知山の洞窟に隠してある特攻機を大和の本隊まで運べ」という命令が下った。蔦氏は隊長役で何人かの部下を連れて福知山まで行き、本土決戦に備えて秘匿していた特攻用の海軍練習機・白菊9機を運ぶことになった。
蔦氏は部下たちに編隊を組むよう命じた。が、もう戦争は終わっている。誰も上官の命令など聞かず、皆が皆あっちに行ったりこっちに行ったりで、自由気ままに飛んで収拾がつかなかった。中には急降下したり、地面すれすれに超低空飛行する者までいた。「戦争は終わった、飛行機に乗るのもこれが最後、思いっきり遊んでやれ!」と、全員が勝手きままな振る舞いに及んでいたのである。蔦氏は唖然として仲間たちの飛行を眺めながら、自由になったことを実感したという。死地をさ迷い続けた特攻兵士たちの解放感をこれほど生々しく伝えるエピソードはないのではないかと思う。

