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2度の特攻出撃命令「ああ、助かった」甲子園の“伝説的監督”が迎えた終戦の日…池田高校・蔦文也が旧知の編集者に語った「特攻兵士たちの最後の飛行」

posted2026/08/29 11:04

 
2度の特攻出撃命令「ああ、助かった」甲子園の“伝説的監督”が迎えた終戦の日…池田高校・蔦文也が旧知の編集者に語った「特攻兵士たちの最後の飛行」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督

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近藤雅人

近藤雅人Masahito Kondo

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Sankei Shimbun

名門・池田高校はなぜ甲子園から“消えた”のか? 蔦文也は本当に名監督だったのか、それとも――? “高校野球界最大の謎”を追ったミステリーノンフィクション『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』(著:田中仰)が発売即重版、早くも大きな話題を集めている。

生前の蔦監督と親交が深く、当時の著作の担当編集者でもあった近藤雅人氏が、本作への率直な思いとともに、蔦監督を変えた“壮絶な戦争体験”を明かす。【全3回の2回目/第3回につづく

◆◆◆

 蔦氏の著書『攻めダルマの教育論』に興味深いエピソードが出てくる。1982年、池田高校は、後に南海ホークスや横浜大洋ホエールズで活躍する好投手・畠山準を擁して、夏の甲子園初優勝を目指していた。無難に勝ち進み、準々決勝で優勝候補筆頭の早稲田実業との対戦が決まった。時の早実のエースは荒木大輔。すでに夏春5大会連続で甲子園に出場していた荒木は人気、実力ともに絶大で、甲子園のヒーロー中のヒーロー。82年夏の大会はすべてが荒木を中心に回っていたと言ってもいいくらいの注目度だった。優勝するためには、この好投手をぜがひでも打ち崩さねばならない。

「14-2」池田打線が爆発した裏側

 この試合が優勝への一大難関だと見た蔦氏は、宿舎から甲子園球場に向かう時、選手たちに荷物の整理をさせて勝負に臨んだという。勝つか負けるか、神のみぞ知る。ならば身をきれいにして退路を絶ち、無心で試合に臨もうではないか、と考えたというのである。実はこれは戦時中、特攻隊で学んだことであったと彼は述べている。特攻隊員たちは荷物の整理をすませ、生への執着心をふっきってから出撃していった。そうすることで、初めて体当たりの覚悟ができたのだという。蔦氏は、軍隊式のしごきのような非合理な行為は嫌う人物だったが、軍隊という究極の場で見たことを野球に用いることにはやぶさかではなかった。この手法が功を奏したのか、集中力を増した池田高校打線が爆発、14対2で早実・荒木を打ち崩した。

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 90年代初頭の私のインタビューでは、蔦氏自身、大井海軍航空隊から特攻作戦の訓練基地であった姫路海軍航空隊に送られる際、荷物をまとめるよう指示を受けたことを述懐している。『攻めダルマの教育論』で述べられた蔦流「選手操縦法」は、彼自身の辛い体験から編み出されたものであったらしい。

蔦に下された「二度の出撃命令」

 戦争末期、蔦氏には出撃命令が二度、下ったという。が、すでに航空戦力の大半を失っていた日本軍にはまともに動く飛行機が少なくなっていた。飛行機の故障のために、蔦氏は二度とも出撃を免れている。まさに九死に一生を得る思いで、蔦氏はその日その日を生き延びていた。

【次ページ】 終戦後、蔦が自由を実感した“ある瞬間”

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