甲子園の風BACK NUMBER
「どうせ死ぬなら、酒と煙草を知って死のう」甲子園の名将・蔦文也を激変させた“特攻隊の壮絶体験”…生前、旧知の池田高校OBに洩らした「死の恐怖」
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近藤雅人Masahito Kondo
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/29 11:03
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
昭和20年3月末、沖縄戦が始まった。4月には特攻機が大量に投入された海軍の大規模攻撃「菊水作戦」が開始されている。5月、蔦氏は兵庫県の姫路海軍航空隊に送られた。ここで訓練を受けた者たちで部隊が編成され、前線基地であった鹿児島の串良海軍航空基地に集結した後に、沖縄方面へ出撃、米艦船に体当たり攻撃するというのが、当時の海軍がとっていた戦術であった。
出立前夜、破れかぶれで暴れる同期生もいた
基地では、同期生が特攻の前線基地へと送られるのを何度も見送った。出立の前夜、破れかぶれになって暴れだす者も少なくなかったという。これまで厳しい訓練で、殴られたり走りまわらされても黙って耐えてきた。それが突然、お国のために死んでこいと言われる。すぐに納得できる者などいなかった。ささいなことに因縁をつけて喧嘩を吹っかけたり、腹立ちまぎれに上官に卵をぶつけたり、酔って軍刀を振り回したり、まさに無礼講の世界だったという。そうした鬱憤ばらしを見ていると、皆が辛い思いになった。ときには出撃と関係のない者まで便乗して暴れだす始末。行く者も見送る者もたまらない気分で夜を過ごしていたという。
戦後生まれの我々は、特攻隊といえば、国のために犠牲となった尊い精神の持ち主という英雄的な若者イメージか、いや本当は天皇陛下バンザイではなく「お母さん~!」と叫んで突っ込んでいったのが実態で、本心から死にたいと思っていた者はいなかった、といったステレオタイプな見方をしがちだ。蔦氏の語るエピソードを聞いていると、体験者にしか語れない生々しいリアリズムが感じられたのを今も私は覚えている。《つづく》
近藤雅人(こんどうまさひと)
1953年、徳島県生まれ。徳島県立池田高校、早稲田大学第一文学部卒業。元ごま書房副編集長。フリーライターを3年ほど経験した後、朝日新聞社に入社。週刊朝日百科・世界の文学編集長、メディカル朝日編集長などを歴任。
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