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「どうせ死ぬなら、酒と煙草を知って死のう」甲子園の名将・蔦文也を激変させた“特攻隊の壮絶体験”…生前、旧知の池田高校OBに洩らした「死の恐怖」
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近藤雅人Masahito Kondo
photograph bySankei Shimbun
posted2026/08/29 11:03
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
1943年、蔦が迎えた学徒出陣
昭和18年(1943)、大学生の徴兵猶予が停止され、同志社大生・蔦文也は同年12月8日に学徒出陣、二等水兵となった。学徒出陣にあたって、東京では神宮外苑競技場で盛大な壮行式が執り行われ、その様子を伝える当時の記録フィルムが現在もよくテレビ放送などで流されるが、関西ではそのような壮行式は催されず、学生たちは三々五々、ひっそりと軍隊に入隊したという。
蔦氏は年が明けてすぐに第14期海軍飛行科予備学生に合格し、飛行機乗りとなって茨城県の土浦海軍航空隊で訓練を受けた後、静岡県の大井海軍航空隊に送られた。ここでも厳しい訓練を受け、蔦氏は昭和20年(1945)の正月を迎える。少尉になっていた。
その頃になると、南方フィリピンの争奪戦で特攻隊が飛んでいることを、大井にいる隊員たちはみな知っていた。航空隊の中には、国粋的な生き方を貫徹しようと、一心不乱に訓練に励む者がいる一方、訓練をサボタージュする反体制的なタイプの者もいて、中にはマルクスとエンゲルスが書いた共産主義の入門書『共産党宣言』を宿舎でこっそり読むような同期の桜もいたという。当時、発禁処分を受けていた書物だ。みな1年ほど前までは大学生。知的好奇心に溢れる年代の若者たちばかりだから、さもありなんのエピソードである。
「どうせ死ぬなら、酒と煙草を知って死のう」
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蔦氏があるとき印象深く語ってくれたのだが、結婚相手が決まっているので特攻にだけは行きたくないと、何かにつけて死に物狂いで特攻隊の選抜から逃れようと苦心する学生もいたという。が、大半の者たちは、自ら積極的に死にたいとは考えていなかったが、もうここまできたらなるようにしかならないと腹をくくり、最期の時を待っていたという。蔦氏もその一員で、時の流れに身をまかせて、静かに時が過ぎ行くのを耐えていた。が、そうは言っても死の恐怖というのは筆舌に尽くしがたいものであったと洩らしていた。
刹那的な気分になり、どうせ若くして死ぬのなら酒と煙草の味でも知って死のうと思ったという。蔦氏はそれまで酒も煙草も女性も知らなかった。野球一筋でストイックな人生をただひたすらに歩んできた。とくに酒に関しては、父親の乱れる姿を見て育ったために、自分は一生近づかないでいようと心に決めていたらしい。しかし、死を目前にして、そのような考えはもうどうでもよいと思った。休暇の日になると仲間と連れ立って朝から街に繰り出し、門限ぎりぎりの夜の10時頃まで浴びるほどに酒をあおった。
