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「アルビレックスとは条件面が、だった」浦和レッズ加入も…ブラジル人FWが明かす「僕のスタイルを理解してくれず」2人のドイツ人監督との苦悩
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沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byToshiya Kondo
posted2025/10/26 11:02
浦和レッズ時代のエジミウソン。強豪での苦悩と、カタール移籍までの経緯とは
「確かに、それは一つの夢だった。でも新潟で1年間、とても快適にプレーできた。家族共々、新潟での生活にも慣れた。『この環境を変えたくない』と思ったので、喜んでオファーを受け入れた」
――結果、2005年はチーム最多の18得点を挙げた。しかし、翌06年は故障に苦しみ、10得点にとどまった。
「05年は体調も非常に良く、中盤には5試合連続得点も記録した。全般的に良いプレーができたと思う。翌年は3月末に右膝を故障したのが響いた。ナビスコカップのグループステージ最初の清水戦で2点決めたんだけど、この試合で右膝の半月板を損傷し、復帰まで2カ月半かかった。それでも、出場した試合ではベストを尽くした」
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――そして、2007年は29試合に出場して自己最多の19得点。チームもクラブ史上最高となる6位に食い込んだ。にもかかわらず新潟と契約を更新しなかった。
「筋肉系の小さな故障はあったけれど、シーズン終盤に5試合連続得点を記録するなど長い期間、好調を維持できた。この年が契約の最終年で、シーズン終了後、クラブ首脳と話し合った。新潟に愛着があり、自分としては契約を延長するつもりだった。でも、良い数字を残したにもかかわらず、条件面の上乗せがなかった。Jリーグの複数のクラブからオファーがあり、新潟退団を決意した」
浦和移籍…2人のドイツ人監督との“食い違い”
――最終的に浦和レッズを選んだ決め手は?
「06年にJリーグ、07年にACLを制覇した日本有数のビッグクラブ。タイトルを狙えると思った。また、熱狂的なサポーターがスタンドを埋める埼玉スタジアムが本拠地というのも魅力だった。だけど……」
――2008年、あなたは浦和レッズに加入しました。しかしクラブはJリーグの最初の2試合だけでホルガー・オジェック監督を解任。ゲルト・エンゲルスが引き継ぎます。あなたは、31試合11得点でした。
「前年まで在籍したワシントンの代わりに入団したことから、僕は2人のドイツ人監督にワシントンと同じようなプレーを求められた。しかし、僕とワシントンとではプレースタイルが違う。そのことをなかなか理解してもらえず、本来のプレーができなかった」
――それでも、2009年は17得点と盛り返します。
「この年の監督はやはりドイツ人のフォルカー・フィンケ。彼は、クラブが僕との契約を破棄してマルキーニョス(当時鹿島アントラーズ)を獲得することを望んでいた。でも、鹿島はマルキーニョスを手離さなかったし、浦和も僕との契約破棄を承諾しなかった。このため、フィンケはやむなく僕を起用した。彼は僕がサイドへ流れることを嫌ったんだけど、僕は彼の指示を受け入れ、以後は事態が好転した」
別れのシュラスコパーティーに全員が…感激した
――2010年は、過去最多の34試合に出場して16得点と好調を維持した。ただし、2011年は6月までに12試合に出場して3得点。シーズン途中にカタールのアル・ガラファへ移籍します。

