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「仲よくボチボチと」阪神暗黒時代のきっかけは“ノホホン野球のクマさん監督”「古参のコーチを切ったらどうですか」江本孟紀が球団社長に直談判
text by

江本孟紀Takenori Emoto
photograph byJIJI PRESS
posted2025/07/20 11:02

1968年、田淵幸一(中央)が、ドラフト1位指名され阪神に入団発表された際の一コマ。左は戸沢一隆球団代表、右は後藤次男監督
このとき、若手選手も後藤さんのおおらかな部分に依存してしまって、「一軍で活躍してやろう」という気概を持つ者は少なかった。春季キャンプ中に、あろうことか早めに宿舎に上がった若手選手には、興に乗じてマージャンに勤しむ者まで出るありさまだった。私はそれを見つけるなりマージャン台を蹴り上げ、若手選手たちを叱り飛ばした。読者のみなさんは信じられないかもしれないが、プロと呼ぶにはあまりにもお粗末すぎるほどのやる気のなさだった。
吉田さん、後藤さんと「勝てる見込みのない監督」が続き、チームはますます袋小路に入り込んでしまったかのようだった。
「江本vs.社長」が方向づけたブレイザー監督の招聘
「いまのままでは、タイガースは弱いままで終わってしまう」
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そう危機感を抱いた阪神電鉄本社は1978年10月、当時、本社の専務取締役だった小津正次郎さんを球団社長に据えた。結果的に小津さんの球団社長起用によって幾多の混乱を招くことになるのだが、この時点ではそんなことは知る由もなかった。
小津球団社長の経歴を見ると、まさに「努力の人」そのものだった。当時、京大出身者が学閥を組んで経営の中心となっていた阪神電鉄において、高松高等商業学校卒で、まさに叩き上げで出世していった。労務関係にくわしく、並の野球選手が小津球団社長とネゴシエーションをしようとしても、太刀打ちできる相手ではない。
そこで阪神の選手会のミーティングで、「ややこしい交渉ごとをまとめるには、ややこしいことを言えるヤツを選手会長にするしかない」という理由で、なぜか私が選挙で選手会長に選出されてしまった。阪神に移籍して3年目が終わった直後のことである。ちなみに、私は選挙には立候補していないし、する選手はいない状況だった。