プロ野球PRESSBACK NUMBER
「江夏豊と厄介者同士」の電撃トレード…江本孟紀が明かす南海→阪神移籍ウラ事情「野村克也さんに“面倒くさいヤツだな”と疎まれた」
text by

江本孟紀Takenori Emoto
photograph bySankei Shimbun
posted2025/07/20 11:00
2010年の江本孟紀と野村克也。南海時代の“電撃トレード通告”の真相とは
複数トレードがそのあとに発表され、長谷川勉、池内豊、島野育夫さん。阪神からは江夏と望月充。4対2のトレードとなったことに、私は思わず野村さんに「4と2では数が合わんで!」と、またも複雑な思いとなった。
さて、なぜ私は阪神に行くことになったのか、思い当たる理由はあった。この年、南海は5位に低迷した。2年前は優勝、1年前は3位と、凋落の傾向が見えた。
沙知代さんの存在、野村さんに直談判後のトレード劇
原因は、そのころから野村さんと行動を共にしていた、のちの夫人・沙知代さんである。
ADVERTISEMENT
なんとなくチームがギクシャクしていたころでもあり、このままではまとまらなくなる――私ら選手がそう考えるのも無理はなかった。ゴルフコンペが開催される数日前、私は藤原満、西岡三四郎と3人で、大阪のロイヤルパークホテルで野村さんと話し合うことになった。
「野村さんは選手兼任監督です。公私ともにチームをまとめて、もっと引っ張っていってほしい」などと直訴した。
このころの野村さんは、現役引退後の野球評論家以降の時代とは違って理論家の雰囲気はまったくなく、選手に考え方が近い兄貴分のようなところがあった。しかし、野球のことはもとより、私生活のことまで言いたい放題。そのことで、軋轢が生じた一部の選手もいた。
だが、野村さんも私たちの話をすぐに理解してくれたのか、「もちろんだ。いろいろ心配してくれてありがとう」と笑顔で応えてくれた。
私たちは、このままいけば無事解決して、来シーズンは一致団結してパ・リーグ制覇ができる――そう考えていた矢先のトレード劇だった。そして、このとき野村さんとの直談判に参加していた西岡も後日、中日ドラゴンズへのトレードが決まった。
江本は面倒くさい、と疎まれたのも不思議な話では
西岡はトレードに出されるとき、野村さんにこう言われた。
「最後にうぬぼれを言わせてもらうが、お前さんはオレが受けていたから結果が出た。オレ以外のキャッチャーだと勝てんよ」
結果的に西岡は1年間中日でプレーしたあと、翌年はヤクルトに移籍。だが、肩痛もあって翌1978年に引退。中日では5試合、ヤクルトでは15試合に登板して3勝1敗という成績に終わる。
私が南海を出されたのは西岡同様、間違いなくこのときの直談判が原因だった。

