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「あれは監督批判か?」→完全無視…野村克也監督の掌で転がされて15勝したヤクルト田畑一也が“トレード直訴”に至ったワケ「もう働く場所が…」
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph bySankei Shimbun
posted2025/07/12 11:01

完封勝利を挙げて野村監督と握手する田畑。しかしこの好投のウラには野村監督の意外な人心掌握術が巡らされていたという
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2年間、必死に投げ続けてきた“勤続疲労”が体に表れ始めていた。1998年春に右肩痛が再発し、夏場に登録抹消するなど登板は12試合にとどまった。
トレード直訴
翌1999年に野村監督が退任すると、球団には大きな改革のうねりが起きた。同年10月の戦力外通告では第1弾で7人の選手に解雇が言い渡されたが、そのうち6人は他球団から移籍してきたいわゆる“外様”だった。
他球団から連れてきた“格安”の選手に『野村ID』を注入して戦力にする。「再生工場」は野村ヤクルトの名物となったが、その一方で球団内部には「生え抜き選手の出場機会を奪い、若手の成長を妨げる」という意見があったのだという。
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自身も生え抜きのレジェンド・若松勉監督への監督交代とともにその批判は表面化し、生え抜き重用の空気が高まった。投手陣ではちょうど、五十嵐亮太や石井弘寿、宮出隆自ら、勢いのある若手投手も台頭していた。田畑の出番は次第に減っていく。
「コーチに『もう勝負させてもらえないんですか?』と聞いたら、『今は若手を優先して使う』と言われました。それで心が折れてしまって……。オフの契約更改の時につい爆発してしまったんですよ。『若手しか使わないなら、僕の働く場所はない。それならトレードに出してください』って」
「田畑トレード直訴!」。スポーツ紙に、派手な見出しが躍った。
〈つづく〉

