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「悲しさでコートを離れられなかった」37歳でパリ五輪代表…深津旭弘は“あのイタリア戦”で何を感じた?「“後輩”石川祐希と話したこととは…」

posted2025/04/25 21:00

 
「悲しさでコートを離れられなかった」37歳でパリ五輪代表…深津旭弘は“あのイタリア戦”で何を感じた?「“後輩”石川祐希と話したこととは…」<Number Web> photograph by JMPA

人気動画シリーズ「Numberバレーボールナイト」で小野寺太志がパリ五輪イタリア戦の“最後のサーブ”について振り返った

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藤森三奈(Number編集部)

藤森三奈(Number編集部)Mina Fujimori

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 NumberPREMIER人気企画「バレーボールナイト」。今回のゲストは、東京グレートベアーズのセッター、深津旭弘選手です。34歳で日本代表に選ばれ、37歳で掴んだ「五輪代表」。世間的には、遅咲きと言われるが、そこに至るまでの着実な歩みがあった。一つ違いで、同時代を生きてきた福澤達哉氏が、その道のりを聞く。

「セッターは深津だよね」と言われるまで

福澤 私と年齢が近いというのもあって、深津選手のキャリアや環境はずっと見てきましたが、JTサンダーズの時代(2010~2021)もなかなか出番がなかったり、苦しみながらやってきましたよね。

深津 そうですね。

福澤 セッターとしてターニングポイントになったのはいつですか。

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深津 ひとつ目のターニングポイントは、JT時代ですね。僕、27~28歳まで全然レギュラー取れなかったんです。試合なんか出たこともなくて。4~5年、下積みみたいな感じでした。

福澤 試合が終わったあとによく一緒に話をしていたことしか覚えていない。

深津 それで、2014-15シーズンに、JTが初優勝したんです。その時に初めてレギュラーとして試合に出ました。そこがターニングポイントです。でも、「JTのセッターは深津だよね」と言われるまでにはもう少し時間がかかりました。

福澤 その後、(11年在籍したJTから)2021年に最初の移籍で、堺ブレイザーズへ行き、23年に今の東京グレートベアーズに移りました。そこに葛藤はなかったんですか。

深津 JTを離れるという決断をする時、これがふたつ目のターニングポイントと言えるんですが、実は、皆さんが思っていたほど、重たくはなく、意外と最後は軽く「なるようになるだろう。もう一回挑戦してみよう」という気持ちだったんです。

福澤 そこから一気に日本代表への道筋が見え始めたわけですが、その時、何歳でしたか。

深津 34歳でしたね。移籍したそのシーズンは選んでもらえませんでしたが、次のシーズンにまた選んでもらって、そこからですね。

福澤 私は35歳で引退しているので、その年で、リーグ戦でアピールをして、日本代表のBチームでアピールをしてと着実に歩んできたことがいかにすごいことかがわかります。これは推察ですが、キャリアのなかで、日本代表を思い描いていたわけではないですよね?

深津 まったくないです。

37歳でパリ五輪「何を感じた?」

福澤 それが急にキャリアの中に入ってきた時、スイッチの切り替えはあったんですか。私は、「日本代表」を目標にしてそれが必然的にコアになっていたので、聞いてみたいんです。

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