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「イチローさんとプレーしたい」川崎宗則がいま明かす“自ら進んでマイナー契約”にこだわったワケ「通訳はいた方がよかったと思うことも」《NumberTV》

posted2025/04/17 11:00

 
「イチローさんとプレーしたい」川崎宗則がいま明かす“自ら進んでマイナー契約”にこだわったワケ「通訳はいた方がよかったと思うことも」《NumberTV》<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

「明るく、前向き。誰からも愛されるエンターテイナー」 今もグラウンドに立つ川崎宗則(43歳)がNumberTVで自らの「挫折地点」について明かした

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生島淳

生島淳Jun Ikushima

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Hideki Sugiyama

 明るく、前向き。誰からも愛されるエンターテイナー。 今もグラウンドに立つ川崎宗則(43歳)は、どんな困難も力に変える。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の前編/後編も公開中>

圧倒され、落ち込んだプロ1年目

 2009年のワールド・ベースボール・クラシックでは、采配をふった原辰徳監督が真っ先にメンバーに入れようと考えたのが川崎宗則だった。原監督は、試合に出場していてもいなくても常に声を出してチームメイトを鼓舞する川崎の姿を見て、こういう人材こそ侍ジャパンに必要だと考えたからだという。

 前向き。トーク上手。誰からも好かれ、チームにとって必要とされる人間。「この人には挫折なんてなかったんじゃないか?」、そう思っても不思議はない。しかし、やはり挫折地点はあった。

 強豪の少年野球チームでプレーし、強かったけれど、野球そのものを楽しめなくなり、中学では最初、バスケットボール部に入部した。友だちに誘われて野球部に入ったあとも、バンドに参加していた(ベース担当)。高校は無名校だったが、俊足ぶりが評価され、ドラフト4位で2000年にホークスに入団。ところが、すべてが違うプロのレベルに圧倒され、落ち込んだ。

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 しかし、そんな経験をプラスに変えてしまうのが川崎の人間としての魅力である。

「ホークスの1年目、これは無理だ。1年経ったら、鹿児島に帰ろうと思いましたよ。でも、うれしかったのはプロに入って初めて野球を教えてもらえたこと。打撃、守備、走塁、もう知らないことばかりで。出来ないことも多かった。でも、野球って出来ないことが、ある時、突然出来たりするから面白いんですよ」

 入団4年目には一軍での出場機会が増え、5年目には打率3割を超えたのだから、まさに急成長。06年、そして09年とWBCでは2大会連続で世界一を経験した。

「イチローさんとプレーしたい」

 そのまま日本でプレーしていれば、安定が約束されていたかもしれない。しかし、川崎は「イチローさんとプレーしたい」という思いが強く、12年にメジャーリーグへ挑戦する。

「最初にプレーしたマリナーズではマイナー契約でした。実は、メジャー契約を提示してくれた球団もあったんですよ。でも、僕がイチローさんとのプレーにこだわったので、マリナーズに。『自ら進んでマイナー契約をするヤツがいるのか?』とびっくりされました(笑)」

 アメリカではマリナーズ、ブルージェイズ、カブスでプレーし、通訳なしで生き抜いた選手として名を馳せる。ある取材でアメリカでの経験について愉快な話を聞いていたら、「でもね……」と川崎は真顔になって、当時のことを吐露し始めた。

「自分の成功を否定する言葉になっちゃうかもしれませんけど、通訳はいた方が良かったと思うこともありました。1年目とか、どう動いていいか分からない時、ありましたから。僕が通訳は要りませんと言ったのは、球団にとって余分な経費を使わない方が、僕自身がメジャー契約を勝ち取れる可能性が高まると思ったからです」

 自力でなんとかする。それは生き残るための術だったのだ。

後編に続く>

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