相撲春秋BACK NUMBER
「7年前の早すぎる死…伝説の横綱・千代の富士は、なぜ“鋼の肉体”を極められた?」一番の稽古相手・琴風が証言する「筋肉が鉄のようで痛くてね…」
text by
佐藤祥子Shoko Sato
photograph byGetty Images
posted2023/07/22 11:02
2016年7月31日に亡くなった千代の富士。写真は1983年の九州場所(11月場所)で
「当時、トレーニングジムに通う力士も増えてきたけれど、あくまでも千代の富士さんは相撲の基本である四股、てっぽう、すり足、砂袋を持っての屈伸運動だけ。やったとしてもダンベル程度でした。とにかく土俵で稽古を始めるまで、ずーっと汗をかいている。私なんて、師匠に『千代の富士を見習え! ずっと動いてるじゃないか!』と叱られていたものですよ」
千代の富士の相撲の取り口の変化も、肌で感じることになっていく。
「それこそ、私が7連勝していた頃は、彼の相撲は軽かったんです。当たってもすぐ上体が起きて、浮いてしまっていたんですよね。だから私も押し出すというより、二本差しで前に出ていくことができた。だから千代の富士さんは思い切り力任せに、首を巻いて投げを打とうとしてきていたんです。でも、ある日突然に相撲が変わった感じなんですよ。まったく変わった……」
「以降は12連敗ですよ(笑)」
それまで天敵だった琴風から千代の富士が初白星を挙げたのは、80年九州場所のことだった。
「この時に前みつをグッと取られて引き付けられ、こっちの体が浮いちゃったんです。吊り寄りで持っていかれて、私はここから千代の富士さんにまったく勝てなくなり、以降は12連敗ですよ(笑)」
冒頭の、出稽古でのふたりの猛稽古は、「この前後の時期から始まり、私が最後のケガをして稽古ができなくなるまで――約3年くらいに及んだんじゃないかな」と、尾車親方は記憶している。
「いつしか、立ち合いで踏み込んで、左の前みつを取りに行く稽古をするようになっていたんですね。私との稽古の時だけでなく他の力士との相撲も、もちろん変わっていったんです。めちゃくちゃな投げにいくことが少なくなり、相撲が緻密になっていく。思えば、ふたりの稽古で私自身も成長させてもらいました。81年の秋場所で私は優勝でき、下手な力士と稽古するよりも千代の富士さんと稽古を重ねたことで、安定した成績を残せるようになったんです」
「ウォーッ!」いきなり腕立て200回
切磋琢磨した日々を思い返すなか、今でも忘れられない光景が脳裏に刻まれているという。