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「実はヒジが痛かったんですよ」山本由伸が恩師に明かした衝撃の告白…高3の夏、誰にも痛みを告げずマウンドへ「もう1試合投げていたら…」
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byAtsushi Hashimoto
posted2023/07/10 17:01
都城高時代は甲子園出場経験がなかったオリックスの山本由伸。高3最後の夏のマウンドについて語った
「元々小学生、中学生のときもピッチャーをしていて、同級生の中でも球が速い方でした。でも中学生になると成長期が遅くはないんですけど、早い方でもなくて……。みんながどんどん大きくなっていく中で、僕は背だけは高い方でしたけど凄く細くて力がなかった。そこから高校になってちょっとずつ体重が増えていくにつれてパワーがついたかなと思います」
投手に専念した2年秋の新人戦では球速は151kmをマークし、決勝の鵬翔戦でノーヒットノーランを達成。一躍、九州でその名を轟かせる存在となっていった。
この頃からとにかく球が速いだけではなく、カーブにスライダー、カットボールにフォークなど変化球も多彩でそれを操る術を身につけていた。
「変化球については小学生の時とかも壁当てとかしていて、そこで試したり、友達とキャッチボールで試したり遊びでやっていました。中学生になってピッチャーを始めたときはストレートとカーブで、そこからスライダーを投げられるようになった。どうでしょうね……全部、最初から割と形にはなっていたかなと思いますね」
こう自負するように、高校2年生から3年生にかけて本格化していく右腕に、監督の石原だけではなくチームメイトたちも、甲子園という夢を描くようになっていった。
「後ろから見ていてもスライダーとか曲がりも凄いし、スピードも135kmくらい出ている。彼を見て『こういう奴がプロに行くんだな』って分かりました。だから僕らもその気になっていましたよね」
こう語るのはチームメイトで二塁を守っていた小野川慶祐だ。
高3の夏、誰にも痛みを告げずにマウンドへ
3年の夏を迎える頃には、いつしか山本は九産大九産の梅野雄吾(現ヤクルト)、福岡大大濠の浜地真澄(現阪神)、鹿児島・れいめいの太田龍(現巨人)と共に、“九州四天王”と呼ばれプロ注目の投手となっていた。