濃度・オブ・ザ・リングBACK NUMBER
那須川天心の“狂気のような冷静さ”と、笑顔で打ち合った武尊の気迫、流した涙…2人はなぜ、最高の舞台で「死ぬ覚悟」だったのか
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byTHE MATCH 2022/Susumu Nagao
posted2022/06/20 12:05
1R、武尊からダウンを奪った那須川天心の左フックの瞬間
ダウンを奪った“会心の左フック”
そう、“生き残った”のは那須川だった。3分3ラウンド、この試合のみ特例の5ジャッジ制で判定5-0。彼は死を賭してなお“死に物狂い”ではなく、冷静沈着に試合を進めた。
サウスポーの構えから右のジャブを軸に攻撃を組み立てる。そうして武尊の生命線である“前進”を簡単には許さない。相手側セコンドの「ジャブは捨てろ」というアドバイスも聞こえていた。ジャブをもらうのは仕方ないから、それでも攻めろという意味だろう。それなら、と那須川は「踏み込んでジャブを打ちました」。軽く牽制するのではなく、もらってくれるんだから思い切り打ち込んでやれというわけだ。
1ラウンドにはカウンターの左フックでダウンを奪った。試合前、最後に確認した攻撃だったという。
「コンパクトに、刀で斬るようなパンチ。会心でした」
相手の動きがよく見えていたから出すことができた。2ラウンド、バッティングで右目の視界がボヤけたが「偶然なので仕方ない」と言う。相手を責めて攻撃に“怒り”が混ざってはいけない。怒ったら怒っただけ動きが粗くなる。その落ち着きは最終3ラウンドまで続いた。
常人には計り知れない狂気の領域で…
逆転を期す武尊は強引に前に出て拳を振るう。笑顔を見せる場面もあった。これはずっと前からのトレードマークだ。打ち合って、相手の攻撃を食らって、試合が激しくなればなるほど、「命のやり取り」にのめり込むほど楽しくなる。楽しくて笑ってしまう。武尊は窮地に陥っても武尊だった。拳にさらに力がこもる。最後まで「これが当たったら天心も危ない」と思わせるだけの気迫は、ドームのスタンド最後列にまで届いていたはずだ。
その気迫を、那須川は正面から受け止めた。「プレッシャー(圧力)はこれまで闘った選手の中でも一番だったんじゃないですかね」と言うほどだったが、それでもほとんどのパンチを見切っていた。武尊が笑いながら攻撃をしてくることも想定内だ。
「笑ったらこのパンチがくる、笑った後にはこう動くっていうのも研究してました」
死ぬ覚悟を持ちながら笑って相手の懐に飛び込む。それが武尊だ。常人には計り知れない狂気の領域としか言いようがない。一方、那須川は負けたら死ぬのだと思い詰めて上がったリングで、どこまでも冷静だった。その落ち着きもまた常人ならざるレベル。負けたら死ぬ。なのにまったく力みがないのだ。あるいはそれは“狂気の域に達した冷静さ”かもしれない。
試合後に那須川が号泣した理由
実際、普通の感情ではなかった。3ラウンドを終え、ジャッジの採点が読み上げられ始めたところで那須川は泣き出した。勝利が確定した瞬間には号泣。しかしその時のことをあまり覚えていないという。インタビュースペースでの第一声はこうだ。
「解放されました。すべて終わったなという感じです」
今後のこと、ボクシングのことについては「1回休んでから」考えるという。しばらく休みたい、格闘技のことは考えたくない。武尊戦が決まってからはボクシング専門の練習はしなくなった。先々のことではなく武尊に勝つことだけを考えてきた。そうしなければ勝てないと思ったからだ。