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クラブ泥酔騒動で「マスコミを恨んだこともあった」 日本人女子初の冬季金メダリスト・里谷多英が告白した“栄光と挫折”
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byGetty Images
posted2022/02/07 11:00
1998年の長野五輪で金メダルを獲得した際の里谷多英
「成功か失敗か、いつもギリギリな滑りをしてきた」
'10年、5度目の五輪となったバンクーバー大会に出場する。決勝では転倒して19位に終わったが、スタートからの他を圧する攻撃的な滑りで鮮烈な印象を残した。
どうしてオリンピックだけ強いのかとよく聞かれたし、オリンピックになると力を発揮するイメージがあるかもしれません。たしかに長野の前は五輪種目ではワールドカップで一度も表彰台に上っていないし、世界選手権もメダルを獲っていません。でも、オリンピックも5回出場して、2回しかメダルを獲っていないんですよね。オリンピックと他の大会の違い、う―ん、よく分からないですね。
そもそも、欲しいとは思っても、メダルが獲れるとも、自分は強い選手だと思うこともなかった。力を100%出し切ってもメダルは無理かもしれないから、とりあえず出し切ろうという意識でした。もし私が強ければ、ここをセーブして、ここをきれいに滑って、と戦略を立てられるけれど、そんな選手じゃなかったですからね。守りの滑りはできなかった。それこそ力以上のものを発揮するくらいじゃないと勝てないから、成功か失敗か、いつもギリギリな滑りをしてきた。それがやっていて楽しかったし、面白かったなあ。
もちろん、予選のときは転んだら終わりだから、ちょっとは考えるんですよ。でも決勝はもうあとがないんだから転んでもいいわけだし、ここで思いっ切り自分のいいところを出せる、みたいな気持ちになれるんです。
バンクーバーも100%に近い滑りだと思いますが、心から100%と思っているのは、'08年3月、札幌のばんけいで行なわれた全日本選手権です。怪我などで1年半休んで、もうやめようかなと考えているときに猪苗代のワールドカップに出て、ぼろぼろだった。その翌月、こんなので終わるのは本意じゃない、と練習に励んで出場した大会です。「表彰台を逃したら全日本から外す」と全日本スキー連盟の方から言われてもいました。そこで優勝したのですが、生涯を通じて、あの滑りが100%、会心の滑りだったと思います。
「私がもっと大人だったら、という悔いはある」
今あらためて、自分のことを振り返ると、すごく不器用な選手だったと思います。けっこう努力しないと、できるようにならなかった。精神面は強いかな、とは思う。だから、自分が勝てると思った試合では勝てるし、ダメだと思ったら必ずダメだったり、イメージ通りになっちゃうんですね。最近、後輩にそれを指摘されて、確かにそうかもな、って思いました。
小学6年生で全日本選手権優勝を果たしてから25年。競技人生で悔いが残ることはないのだろうか。
ひとつ残念に思っていることはあります。モーグルという競技の認知度が高くなったのは、(上村)愛子がCMに出て、私が金メダルを獲った長野五輪の前後だったと思うんです。そのときに私がもっと大人だったら、あれは嫌だ、これは面倒くさいって言わないで、子どもたちへの普及活動とか、モーグルを日本に定着させるためにもっといろいろ貢献できたんじゃないかということです。
私がスキーを続けてこられたのは、フジテレビに就職して支えてもらったからです。でも競技環境が十分じゃない選手はたくさんいて、そのためにやめていく選手もいるし、兄弟のうちどちらかが選手をあきらめて一方を応援するケースもけっこうある。長野のとき頑張っていたら状況も違ったかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちになります。愛子ともたまに、あの頃は嫌だと言えば詐されたりして甘えていたよねって話すんですけれど。