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阪神の“最強助っ人”バースはなぜ34歳で突然引退したのか? 「スワローズとホークスから話が来ている」他球団移籍が成立しなかった事情
posted2021/11/04 06:02
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
あの1985年の日本一から3年……愛息ザクリー君の治療のため、シーズン途中アメリカに帰国したバース。そんな6月27日午前4時、バースのもとに一本の電話が入る。相手は阪神編成部員兼通訳の本多達也だった。
「君は、解雇だ」
それを告げる本多もつらそうだったという。もはや上層部で物事は決まり、自分はそれを伝えることしかできないのだと。当時の阪神は、6月10日に球団社長を退任させ、新たな人事ラインの突貫工事で球団を強引に次のサイクルに持っていこうとしていた。つまり、85年優勝メンバーで高額年俸の人気選手だった掛布とバースのいないチーム作りである。
背番号31のミスタータイガースは6番降格、さらに「週刊文春」88年7月28日号によると、試合後の話し合いで村山監督から「掛布、お前は疲れてるんや。女房連れて温泉にでも行ってこいや」と、遠回しに事実上の戦力外を告げられてしまう。結局、掛布はこの年限りで33歳の若さで引退することになる。
バースも球団側とロサンゼルスで話し合いを持つが、今後の治療費を巡り事態は長期化。年俸の支払いについて、2年契約270万ドル(3億5100万円)の内、すでに7300万円の支給は受けたが、残り2億7800万円はどうするのかといった交渉の詳細が、当時のマスコミにはすべて漏れていた。『バースの日記。』によると、9月下旬にようやく医療費名目の総額155万ドルに加え、保険に代わる信託基金の設定などで和解したという。しかしその間、他にも様々な業務に追われて心労が重なった阪神球団代表が自殺する騒動もあった。
チームは、バースの代わりにルパート・ジョーンズというスキンヘッドの新外国人選手を緊急獲得するも、話題になったのは日本球界初の「背番号00」のみで、チームは最下位を独走。自ら最強助っ人を手放した阪神は、これ以降しばらく暗黒期へと突入する。
バース「いま中日ドラゴンズが誘いにきている」
結局、88年のバースは5月5日の試合を最後に戻ることなく、わずか22試合の出場で打率.321、2本塁打、8打点。だが、当時まだ34歳の最強助っ人に多くの球団が水面下で接触しており、本人も日本での復帰を望んでいた。