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“プロ転向パーティーに200人”杉山愛が46歳に 高校中退でプロに進んだ少女はなぜ「世界一」になれたのか?

posted2021/07/05 11:02

 
“プロ転向パーティーに200人”杉山愛が46歳に 高校中退でプロに進んだ少女はなぜ「世界一」になれたのか?<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

本日7月5日は杉山愛の誕生日。日本人選手として初のWTAダブルス世界ランキングで1位となった

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山口奈緒美

山口奈緒美Naomi Yamaguchi

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Hideki Sugiyama

 1975年7月5日、ウィンブルドンのトロフィーに初めて日本人女性の名前が刻まれた。当時24歳の沢松和子が日系3世のアン清村と組んだ女子ダブルスで優勝を遂げた日だ。

 のちに日本を代表するプレーヤーとなる杉山愛は、まさにこの日に生まれた。ダブルスで2000年の全米オープンを制し、さらに3年後には全仏オープン、そしてウィンブルドンでも頂点に立ち、「沢松和子以来」を成し遂げるのだから、なんとも運命的な誕生の日だった。時差があるため、実際は快挙のとき日本の日付はもう変わっていたが、それはこの運命を語る際にさほど重要ではない。

「その日に生まれたからテニスを始めたわけではないですが(笑)、両親もテニスをしていましたし、テニスはずっと身近にあるものでした。実家にはウィンブルドンのセンターコートのポスターが貼ってあって、いつかそこに立ちたいという夢を持ちながら日常を送っていたので、そう考えると、和子さんが優勝した日が誕生日というのは運命的だったなと思います」

「プロになるなら学校はやめざるをえませんでした」

 そんな杉山がプロの世界に飛び込んだのは、湘南工科大附属高校の2年生だった17歳のとき。1年でインターハイ・チャンピオンとなり、2年のときは団体戦のみ出場してチームを初優勝に導いた。すでにプロサーキットに参戦していた杉山は、アメリカ遠征の最中にいったん帰国してこのインターハイを戦っている。しかも直前のITF2大会でいずれも決勝に進出、2週目は優勝という絶好調のときだった。不本意に強いられた帰国だったのではないかと思いきや、杉山は「自分で希望したことです。ポテンシャルのあったチームだったので、このチームで絶対優勝したいという気持ちが強かった」と高校生らしい当時のモチベーションを振り返る。

 目標をきっちりと達成した上で、プロ活動に専念する決意を固めて湘南工科大附属高校を辞めた。それまでのような両立は不可能だったからだ。

「プロは規則で高体連の試合に出られない。インターハイや選抜大会に出ないなら、学校としては私の活動を部活動の一環として認めることはできず、公欠扱いにできないということでした。すると出席日数がクリアできない。掛け合いはしましたが、前例がないということで。私としては出席日数を数えながら許される範囲内で試合に出るということは考えられなかったので、プロになるなら学校はやめざるをえませんでした」

 代わって通信過程のある湘南高校に入った。

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