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中日・木下雄介の“残酷で衝撃的な負傷”は大手術へ… 27歳の決断を支えた「悲劇のエース」中里篤史の経験談
text by
小西斗真Toma Konishi
photograph byKyodo News
posted2021/04/14 06:00
投球直後に右肩をおさえうずくまった木下雄介。ただごとではない場面に、場内も静まり返った
「悲劇のエース」中里篤史は保存療法を選び
27歳の木下にとっても、野球人生を懸けた二択。この20日の間に、医師以外のオピニオンを仰いでいる。中日ファンの間では「悲劇のエース」として知られる中里篤史氏だ。
2001年にドラフト1位で入団。直後から類いまれな能力を認められ、1年目には早くも一軍デビューした。しかし、2年目の沖縄キャンプで悲劇が起こる。宿舎でのミーティング後、階段を降りる際に足を滑らせたが、右手は手すりをつかんだままだったのが悪かった。右肩を脱臼し、関節唇も損傷。ただし、当時は前例も少なかった上に「手術するならアメリカで」という時代だった。選択を迫られた中里氏が不安のあまり保存療法を選んだのも無理はない。
しかし、結果的には遠回りだった。翌03年秋にプールでトレーニングしているときに、軽く背泳ぎをしようとした動きで関節が再び外れた。明けた04年1月末に右肩及び肘を手術。長いリハビリに耐え、手術から1年7カ月後の05年8月に、二軍で実戦復帰を果たしている。
「早く手術した方が良かった」
通算34試合(手術後は32試合)に登板し、2勝2敗。球団関係者が「あの事故さえなければ、ドラゴンズの歴史は変わっていた」と、今でも悔しがる才能を思えば、心が痛む成績ではある。
現在は巨人のスコアラーを務める中里氏は、関係者を通じての木下からの頼みを快諾。球団の垣根を越え、経験談を伝えた。それは「当時の自分にアドバイスできるのなら、最初の脱臼で手術する。手術をしたことで、少なくとも不安はなくなった。パフォーマンスが脱臼以前に戻ることはないだろうが、その中でどういうピッチングができるかを考えられた。その前提を踏まえた上でも、早く手術した方が良かった」との内容だったという。