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日光アイスバックス・福藤豊「僕が日本人初のNHLプレーヤーとして辛かった海外生活から得たもの」
posted2020/12/09 11:00
text by
林田順子Junko Hayashida
photograph by
Shigeki Yamamoto
高校生で初となるアイスホッケー日本代表入りを果たし、2005年には日本人初のNHL(ナショナルホッケーリーグ)契約選手となった福藤豊。その後も、オランダやデンマークのリーグでプレーを磨き、現在も日本代表の正ゴーリー(ゴールキーパー)として活躍している。そんな彼のプレーの礎となっているのは、若くして渡った海外での辛い経験だった。
アイスホッケーを始めたのは小学校3年生の時。身長が大きかったので、小学校4年生の時に当時の監督に言われて、ゴーリーに転向しました。
小さい頃からNHLの選手になるのが夢で、高校生の頃はアイスホッケーが純粋に楽しくて、ただがむしゃらに打ち込んでいました。当時は何のプレッシャーも感じていませんでしたね。
夢への第一歩となったのが、18歳の時に入団したシンシナティ・サイクロンズ。ただ、競技生活を振り返っても、あの頃が一番辛かった。
アメリカのマイナーリーグは日本とは違い、3番手のゴーリーはまずいないんです。大体2人でどちらかが怪我したら、もう1人を使い、その間にどこかのリーグから選手を引っ張ってくる。3番手のゴーリーのポジションがあることが異例なのに、そこに日本人がいるんですから。周りの選手からは理解されなかったし、チームメイトとして受け入れてもらうことができませんでした。何の知識も準備もなかった自分も悪いのですが、とにかく悔しくて、辛い1年でしたね。
技術を学ぶことに目を向けていたら……
ただ、正直にいうとあの頃は、NHLでプレーできるほどのレベルではなかったんです。振り返ってみても、もっと若い頃から技術を学びたかったなと思っています。僕たちの世代は、とにかくきつい練習をすればうまくなると言われて育った世代。僕も頑張っていれば、必ず結果はついてくると信じていました。だけど、今考えれば、そんなわけないなって思うんです。だって、アイスホッケーに必要なものがただ走らされているだけで身につくわけがない。スケーティングの技術だったり、プレーヤーだったら点を取る技術、ゴーリーだったらパックを止める技術。そういう技術をしっかり学ぶことに目を向けていたら、今の僕はもっと変わっていたんじゃないか、もったいなかったなと思いますね。
だからと言って、自分が今までやって来たことが全く間違っていたわけでもありません。プレーがうまかったからといって、シンシナティで受け入れてもらえたかというとそれも別の話です。