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白樺学園、鶴岡東、健大高崎。
3校が複数投手性を選んだ契機。 

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田口元義

田口元義Genki Taguchi

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posted2020/05/11 07:00

白樺学園、鶴岡東、健大高崎。3校が複数投手性を選んだ契機。<Number Web> photograph by Sports Graphic Number

左から白樺学園の戸出直樹監督、鶴岡東の佐藤俊監督、健大高崎の青柳博文監督。

大黒柱に頼り切ってしまった。

 投手起用の転換期は2005年だったという。

 この年、2年生ながら主戦を務めていた中川祐輔は、高校入学早々から実戦登板を重ねる、まさに戸出が欲していた大黒柱だった。

 春の全道大会初戦で、前年夏に全国制覇を達成した駒大苫小牧を撃破し、大会後の練習試合でも再び土をつけた。同校の選手たちは後に夏に甲子園連覇を果たす上で「大きなきっかけだった」と、白樺学園との試合を挙げたが、王者を本気にさせたのは中川の存在だったと言ってもいいだろう。

 駒大苫小牧を奮起させながら、自分たちは北北海道大会の準決勝で敗れた。理由について、戸出は「中川の疲労」と認めている。

「1年の春から投げさせていましたし、連戦連投という起用法でしたから。本当に力のあるピッチャーだったので、私も中川に頼り切ってしまっていたんでしょうね」

 白樺学園は翌2006年の夏、初めて全国の舞台に立った。だが、それは「エース・中川」という金看板によってもたらされた結果ではなく、「刺激を受けた他のピッチャーが頑張ってくれたから」と戸出が言う。この年は2番手の大竹口孝文の急成長が、甲子園を手繰り寄せたのだと、指揮官は強調した。

 戸出は甲子園初出場の原動力となった「2枚看板」を、今も教訓としている。

「やっぱり、絶対エースを育てるだけじゃ限界がある。それを教えてくれたのが、2005年の中川でした」

鶴岡東を変えた10年前のエース渡辺貴洋。

 鶴岡東も“脱・絶対エース”によって、甲子園への道を切り開いたチームだ。

 そして、監督の佐藤俊もまた、投手起用の転換期をはっきりと覚えている。

「10年前の経験が、今の投手育成の礎となっています」

 それは、佐藤にとって苦渋の決断だった。

 10年の夏。山形県大会を勝ち抜くために投手5人をベンチ入りさせたが、故障などコンディション不良が相次ぎ、マウンドを任せられるのはエースの渡辺貴洋だけだった。

 初戦から5試合、準決勝と決勝に至っては延長戦と、まさに孤軍奮闘の力投を見せたものの、甲子園まで一歩届かなかった。

【次ページ】 1人の奮闘が複数投手の重要性を物語る。

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