オリンピック4位という人生BACK NUMBER
<オリンピック4位という人生(3)>
ミュンヘン五輪「神からのメダル」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byPHOTO KISHIMOTO
posted2020/01/26 11:30
レスリングフリー62kg級で4位となった阿部巨史。メダルの期待をその一身に背負っていた。
イスラエル代表の選手に起きた悲劇。
かつて阿部がいた世界に神は必要なかった。存在自体を信じていなかった。事実、あのミュンヘンでも神の不在としか思えない光景を阿部は目撃している。
「黒い九月」と名乗るパレスチナのテロ組織がイスラエル代表の選手村に侵入し、レスリングのコーチ、選手らを人質に取った。そしてスポーツの祭典の真っ只中で国を背負った11人が命を落とした。
「私は彼らが殺される数日前、練習場で話をしました。純粋にただただレスリングの話をしたように記憶しています」
五輪史上最悪の悲劇はその後も報復の連鎖を生み、死者を増やした。殺し合いの最中、彼らは神の名を叫んでいた。
「ニューヨークだって自分が住んでいる目と鼻の先で人が殺される。もう世の中、嫌になってしまって……。もし神様がいるなら、こんなこと起こらないだろうと……」
阿部は神の不在を怒り嘆くように、一方でその存在に一縷の望みを託すかのように、十字架の門をくぐったのだ。
日米合同教会。マンハッタンを流れるハドソン川の東、7番街のビル群の中にあるその建物へ月に1度バスで通ってみた。
月に1度は2度に、やがて毎週になった。
そして1年後。38歳のクリスマスに阿部は洗礼を受けた。
阿部に言わせれば神はいた。そうとしか思えないことが身に起こったのだという。
「洗礼を受けてまもなくの頃でした。夢を見たんです。あの夢ではありませんでした。追いかけられるようなものではなく、表彰式の夢です。ミュンヘンの観客席から見たあの景色の中に自分がいるんです。私が金メダルをかけてもらっているんです。なぜですかね……、それから一切、オリンピックの夢を見なくなったんです。ああ、神様が自分の苦しみをわかってくれたんだと、救ってくれたんだと、そう思いました」
阿部は72歳の今もニューヨークで暮らし、アメリカ人として生きている。神のいる、弱者も敗者もいる世界に生きている。
「自分の存在がどういうものであるか、今は理解できています。レスリングをやっている時は弱い者を認めず、蹴落とすことばかりしていました。でも今は弱い者を救おうとできている。4位という苦しみも、負けも、必要だったと思えるんです」
そこまで話すと阿部はひとつ息をついた。これまでずっと己の胸に秘してきたことから解き放たれたような深い息だった。
4位は一つの失敗です。ただ……。
――ミュンヘン五輪での4位という結果をどうとらえていますか。
取材の始まり、阿部は口を閉ざしていた。
「これは私の人生の個人的なこと。誰かに知っていただこうとは思わないのでお断りしたいと思いまして――」
そこから阿部はひとつひとつの傷と向き合い、一個一個、心の鍵を開けていった。
そしていまだ胸に迫ってくるあの苦しみを反芻し、声をつまらせながら、すベてを語り終えると、最後にこう言った。
「オリンピック4位というのは一つの失敗です。ただ、そのおかげでかけがえのない発見があった。金メダルをとった人も、とれなかった人も、そこから一番大事なものを見つけていくんだろうと思うんです。今、お話ししたのが私の人生で起こった最も大きなことです。お話ししてよかったと、今はそう思えます」
阿部巨史(レスリング)
1947年4月26日、北海道生まれ。旭川南高校、専修大卒業後、自衛隊に所属。'73年ニューヨークに移住。'76年全米選手権フリー・62kg級に出場し、優勝を果たす。'04年に米国籍を取得。飲食店勤務の後、現在は食品関係の仕事に就く。
◇ ◇ ◇
<この大会で日本は…>
【期間】1972年8月26日~9月11日
【開催地】ミュンヘン (西ドイツ)
【参加国数】121
【参加人数】7,134人(男子6,075人、女子1,059人)
【競技種目数】21競技195種目(ハンドボールなどが追加)
【日本のメダル数】
金13個 バレーボール男子、体操男子団体 など
銀8個 笠松茂(体操・平行棒)、バレーボール女子 など
銅8個 西村昌樹(柔道・重量級) など
【大会概要】加藤沢男ら体操男子が計16個ものメダルを獲得。男子バレー準決勝ブルガリア戦では、0-2の土壇場からの逆転を果たし「ミュンヘンの奇跡」と呼ばれた。大会期間中の9月5日、パレスチナのテロ組織が囚われた同胞の解放を求め、イスラエル選手らを人質に取り、11人が犠牲となった「黒い九月事件」が発生。
【この年の出来事】札幌冬季五輪。沖縄返還。パンダフィーバー。フォークソング大流行。