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国立大Jリーガーから海外転戦人生。
廣山望が世代別代表で伝えること。 

text by

谷川良介

谷川良介Ryosuke Tanikawa

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photograph byTakashi Shimizu

posted2019/07/13 11:30

国立大Jリーガーから海外転戦人生。廣山望が世代別代表で伝えること。<Number Web> photograph by Takashi Shimizu

南米をはじめとした海外生活の経験が豊富な廣山望。そのキャリアで得たことを若き代表選手たちにも伝えていく。

ポルトガル、フランスにも渡って。

“生きるか死ぬか”の中で戦った南米での経験は今でも廣山の脳裏に深く刻まれている。

 ひとつのビッグプレーで自らと家族を欧州に連れて行く選手がいれば、チャンスを逸して落ちぶれていく選手もいた。結果だけに価値を見出す世界で戦ってみたかったと、当時を振り返る。

「サッカーだけで勝負できた。極端な話、試合で活躍さえすれば他はどうでもいい。選手だけでなく監督だってチームを勝たせて、いい選手を売ってこそ評価が上がるわけですから。(移籍がしやすい)ルーツがある選手を優先するのは当然です。指導者になった今だからこそ、当時の監督の凄さがわかりますね。あの環境の中でよく僕を使ってくれたなと(笑)」

 半年間の在籍となったパラグアイのセロ・ポルテーニョではレギュラーとして国内リーグ優勝に貢献。リベルタドーレス杯にも日本人選手として初めて出場した。

 だが、その後移籍したブラジルのスポルチではビザの関係で出場ゼロに終わり、日本人として初めて挑んだポルトガルリーグ(ブラガ)、フランスリーグ(モンペリエ)では怪我に泣かされた。同世代の選手たちが活躍する日韓W杯を尻目に、苦しい時間を過ごした。

「海外移籍は、少しでも成長したい、プレーの幅を広げたいという思いから選んだだけ。何かを得たくて行ったわけではないんです。昔から先のことを考えて動くタイプではなかったので」

ライセンス取得で出会った布さん。

 リスクよりも自らの直感を信じてきた男が指導者を志ざし始めたのはいつだったのか。

 それは、廣山がまだ現役だった2010年、ある人物との出会いから始まる。

「指導者になろうなんて現役の時はまったく考えていなかったですね。指導者ライセンスを取りに行ったのも、取っておいて損はない、くらいの気持ちでした。その時にB級(ライセンスの取得)の担当をしていた布(啓一郎・現ザスパクサツ群馬監督)さんに出会いました」

 地元の千葉で市立船橋高校を名門に育て上げた名将は、U-19日本代表などを率いた後、JFAアカデミー福島のスクールマスターを務めていた。現役生活の終盤に差し掛かっていた廣山は布氏との会話の中で、指導者の面白みを感じたという。

【次ページ】 アメリカでの2年間は貴重な経験。

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廣山望

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