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11年ぶりに復活したオーストリアGP。
マルコとラウダが夢の「競演」。
posted2014/06/29 10:30
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Getty Images
11年ぶりにオーストリアにF1が帰ってきた。
これは、改名されたレッドブルリンクでメルセデスAMGがワンツーフィニッシュを成し遂げた第8戦オーストリアGPのことだけを言っているのではない。同じ週末に、同じサーキットで行なわれた、あるイベントにも日曜日に詰めかけた9万人の観客が心を躍らせたからである。それは「レジェンド・パレード」と呼ばれるサポートイベントだった。
オーストリアGPの主催者が11年ぶりのF1復活を祝おうと企画したこのイベント。オーストリア人ドライバーがかつて自身が駆った往年の名車に乗って、新装されたレッドブルリンクを走るという催しだが、その顔ぶれの中でひと際輝いていた2人のドライバーがいる。
ヘルムート・マルコとニキ・ラウダだ。そしてこのイベントは、現在のF1にこの2人のオーストリア人がいかに強くかつ深く関わっているかを感じさせるに十分な内容だった。
まず1972年製のBRM P160bに乗って現れたのが、マルコである。F1出走期間は1971年の8月から1972年の7月までの約1年間だけで、出走回数も9レースだけ。最後はレース中に前車が跳ね上げた小石がヘルメットを直撃し、悲運な引退を余儀なくされたマルコは、結局一度も入賞することができずに、現役生活にピリオドを打った。
ベッテルを発掘し、表彰台の頂上に登った。
しかし、マルコのレース人生はこれで終わることはなかった。彼はドライバーたちのマネージャーとして、その後、後進のオーストリア人ドライバーの育成を図るのである。最初にマネージメントしたのはゲルハルト・ベルガー。かつてミハエル・シューマッハらとメルセデスのジュニアチームでタッグを組んだカール・ベンドリンガーもマルコに才能を見いだされたドライバーのひとりである。
さらに2000年代に入って、レッドブルが本格的にレース運営に関わり出すと、マルコはオーストリア人だけでなく、レッドブルの若手ドライバー育成システムを任されるようになる。
そこでマルコに発掘されたのが、ドイツ人のセバスチャン・ベッテルだった。レッドブルの功績の多くは、天才デザイナーのエイドリアン・ニューウェイ(チーフテクニカルオフィサー)が技術部門を統括してきたことによるのは確かだが、人間を育てるというソフト面でマルコが果たした役割も決して小さくない。
2010年の最終戦アブダビGPで、ベッテルがレッドブルに初めてチャンピオンをもたらしたとき、表彰台の頂点でベッテルとともにシャンパンを浴びていたのは、オーナーのデートリッヒ・マテシッツでもなく、チーム代表のクリスチャン・ホーナーでもなく、あるいはニューウェイですらなく、マルコだったことはあまり知られていない。