青春GOLF ――石川遼に密着! BACK NUMBER
米ツアー初優勝まではあと何試合!?
石川遼に必要な「時間」と「仲間」。
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byGetty Images
posted2012/02/01 10:30
カリフォルニア州のトーリーパインズGCで行われたファーマーズ・インシュランス・オープン。通算9アンダーの11位タイで最終日を迎えた石川は、この日1イーグル、2バーディ、4ボギーの「72」のパープレー。13位で大会を終えた
米ツアーで初めて勝つということは、かくも難しいものかと考えてしまう。
今季2戦目となった米ツアーのファーマーズ・インシュランス・オープンで石川遼は好プレーを見せた。首位が独走していたため、優勝争いとはいえなかったが、最終日は前半を終えて5位まで浮上。バックナインでスコアを落としてトップ10を逃したはいえ、今後に光明を見いだせる13位となった。
難しさを思うのは石川ではなく、大差のリードで首位を走っていた選手に対してである。
最終日を5打差の首位で迎えたカイル・スタンリーは最終ホールを迎えてもまだ2位に3打差をつけていた。ところが、最後の最後、このパー5で3打目を池に落とし、さらに3パットしてのトリプルボギー。最悪の形でリードを失い、ブラント・スネデカーとのプレーオフも2ホール目で敗北。米ツアー43戦目で手の届きかけていた初優勝を逃してしまった。
青木功は米ツアー60試合目で初勝利が見えてきたという。
1983年のハワイアンオープンで日本人初の米ツアー優勝を果たした青木功は自著の中でこう回想していた。
「全米女子プロを制した樋口久子プロは、若いころから米ツアーに挑戦し、ほぼ60試合目のころにこのメジャー制覇の金字塔を打ち立てた。自分もそれくらい経験を積んでいけばひょっとして勝てるかもしれないと、漠然と考えていた。そろそろその60試合を超えているころだった」(『青木功 プレッシャーを楽しんで -私の履歴書-』/日本経済新聞出版社)
樋口久子が'77年に全米女子プロを勝ったのは67試合目、青木は61試合目だった。なぜ青木はそこに境界線を見いだしたのだろうか。
1月中旬に行われたソニーオープンでは青木夫人のチエさんが会場に姿を見せ、石川ら日本人選手の応援をしていた。チエさんは当時を振り返ってこう言った。
「最初の頃は『AOKI』というのは日本でしか知られていない選手だった。それまでいくら日本で活躍していても、米ツアーではただのワンオブゼム。要するにお客様だった。そういうのは孤独ですよね。わたしたちにはプレスの人が結構一緒にツアーを回っていてくださったから、そういう意味では救われたんですけど、やっぱり言葉や食事の違いっていうのもすごくありました」