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それぞれの騎手道。 

text by

大塚美奈

大塚美奈Mina Otsuka

PROFILE

posted2004/05/20 00:00

 一体、どこまで行くんやろ― ――。

 帰途につく競馬ファンの雑踏を追いかけながら、岩田康誠は“駅”を探していた。

 4月18日、皐月賞でカリプソパンチに騎乗した園田の騎手は、初めて中山に遠征した。

 「渋滞で飛行機に乗り遅れたらあかんから、電車の方がいいと思って……。西船橋駅まで25分くらい歩きました」

 本来の最寄り駅・船橋法典は10分足らず。

「うそー、全然知らん(笑)」

 関西で名の知れた岩田は、関東のでも声がかかるようになった。

 園田の自宅には早く帰りたかった。月曜日は午前4時から調教に跨って、午後3時には地元競馬の調整ルームに入る忙しさである。平日は兵庫、土日は中央。昨年はJRAで年間25勝を挙げた。全国区で活躍するようになって、休みはほとんどなくなった。「アンカツ、小牧の次は岩田」と、彼をそう位置づけている競馬関係者は多い。

 中学3年の頃、姫路競馬場近くのお好み焼き屋で運命は決まった。130cm、30kgの少年に、見知らぬおっちゃんが「君、ジョッキーになったら儲かるで」と声をかけた。「ジョッキーってなんやねん」と聞き返した岩田だが、母親の薦めもあって地方の競馬学校を受験した。当然、中央は知らなかった。

「教官に“あと2点足りんかったら落ちてた”と言われた。中央を受けてたらまず滑ってたから、僕はこれでよかったんちゃう」

 デビューした'91年は7勝だった。3年目に104勝を挙げてから飛躍的に勝ち星を伸ばし、6年目は兵庫3冠を制覇した。

「最初はがむしゃらなだけやった。人より先輩にごっつ怒られて、勉強になった」

 小さな体に坊主頭。“あんちゃん時代”はマルコメの愛称でかわいがられたが、馬に乗れば勝負師に豹変した。狭い進路でもひるむことなく突っ込んでいった。

 時代の流れも、岩田を後押しした。'99年、アラブ競馬のみだった兵庫にサラブレッドが導入されて中央へ行く機会が増えた。

「初出走の時はレースに参加してないって言われて、ボロボロに自信がくずれた。実績と“乗れる”ことは関係ないって分かった」

 一戦一戦大事に乗ることで展開を掴めるようになり、穴馬で連対する力がついた。

 中央で18勝を挙げた'02年は、ビリーヴでセントウルSを勝ち重賞初制覇。後にを2勝した牝馬の引退式には、主戦の武豊、安藤勝己とともに参加した。

「なんで僕がおるんやって恥ずかしかったけど、うれしかった。また、ビリーヴみたいな超一流馬に出会いたい、ずっと乗りたい、中央に行ったら乗れるんやろなって……」

 憧れは強くなったが、周りの環境や条件が整わないうちは自然体で構えることができた。「まだ早い」と肝に銘じていたが、無意識の願望は自分の想像を明らかに超えていた。

 昨年度の試験で、園田のトップだった小牧太とリーディング3位の赤木高太郎が合格。岩田も1次から受験したが、不合格だった。

「太さんと高太郎さんが行くことになって、初めてジョッキーをやめたいって思った。2人ともイキイキしてるのに“なんで俺だけ”って焦った。馬に乗っても調子が悪くて、初めて死にたいって思った。俺、こんなに中央へ行きたかったんや、って気がついた」

 唯一の救いは「考える暇がなかった」ことだった。がむしゃらに乗り続けて、勝つことが薬になった。'03年の阪神JFでは人気薄のヤマニンアルシオンで2着に善戦した。

「の2着も“ガツガツせんと、まだ試練が必要や”って今は思える。いい意味で毎日、気楽に乗れてるし、すっごく楽しい」

 5月2日、岩田は2年連続でJRA20勝に到達した。'05年度の1次試験免除の資格を得たが、今年も勉強して学科から受験する。

「園田でも中央でも僕を応援してくれる人がいて、ここまで乗せてもらえるんやから、1年でも早く中央へ行きたい。来年の免除があるのに受かったら格好ええでしょ」

 そう言って笑うと、岩山を這い上がるしぐさを見せた。

「20勝のハードルはすごく高かったけど、もうすぐ頂上や、ってよじのぼって行ったら、??スタート地点がやっと見えた感じです」

 実30歳の岩田が生まれる前から、石崎隆之はジョッキーだった。'73年にデビューし、コツコツと頂点に辿り着いた。「地方の岡部」と言われ、13年連続でNARグランプリを獲得し、昨年は通算5000勝を達成。南関東を超えた、地方競馬の顔である。

「グランプリは1回取れば、2回、3回と守ろうって気持ちになるし、こんなに乗せてもらったのはみんなのおかげ。乗り数を考えれば勝つのも当たり前だと思う」

 石崎は淡々と語るが、「食べないと決めたらあと一口でも絶対残すし、寝ると決めたらその日はどんなに誘われても帰ってきます」と妻の恵子が言うように、厳しい自己管理が48歳の名手を支えている。

「20代の時は、中央は別世界。テレビでしか見たことがないから、当時は行きたいとか思わなかった。所帯を持って自然に稼ごうってやる気が出て、勝ち鞍が増えれば中央へ遠征したいって考えるようになったけど……」

 移籍する発想は頭の片隅にもなかった。

 石崎が若い頃、中央への遠征は“招待レース”と決まっていた。ワールドスーパージョッキーズにも何度か参加し、優勝も果たしている。その後'95年に交流競走が始まり、中央で乗る機会はさらに増えた。'97年の東海Sをアブクマポーロで優勝、'02年のフェブラリーSはトーシンブリザードで2着。2頭は船橋の所属で、お手馬だった。

 石崎も岩田同様、昨年JRAで20勝を挙げているが、受験の意志はない。「中央で1勝でも多くできれば自分の記録になるし、俺が頑張れば船橋の乗り役でも後を継ぎたい子がでてくる。道営のコスモバルクがダービーを勝ったら夢が広がるのと一緒で、中央へ行かなくても20勝2回はやってみたい。受けなくても受かった気になれるし(笑)。あと10年若けりゃ考えていたかもしれないけどね……」

 長男・駿も3年前、石崎と同じ船橋で騎手になった。20歳の有望株だが、実は中央の競馬学校を2週間で退学。一気に背丈が5cmも伸びて減量に苦しんだ。僅か200gが落とせず、大腸炎に見舞われた。

「駿が試験に受かったと聞いた時は、自分がを勝った時よりうれしそうでした」

 普段、感情を表に出さない夫の笑顔を、妻は鮮烈に覚えていた。退学が決まって、息子を迎えに来た石崎は、激しく泣きじゃくる駿の前で、学校側にひと言だけ告げた。

「騎手の道は中央(ここ)だけじゃないですから」

 挑戦的な語気に驚いて、妻が思わず見上げた夫の気迫は凄まじかった。

 「あの時の主人の目は忘れられない。この人には地方を引っ張ってきた意地がある、と改めて思いました」

 家に帰っても涙が止まらない駿に、父は言った。「牛の尻尾より、鶏(にわとり)のトサカになれ」。石崎の父が口にしていた信念だった。

「僕は、若い奴が中央へ行きたいというなら行ったほうがいいと思う。小さい舞台より大きい舞台の方がいいでしょ。これからは中央も地方もなくなる時代がくるかもしれない。こっちにも大きなレースがあるし、武豊騎手が地方のダービーに乗ったっていい。自分はただ、できるだけ長く乗っていたいね。意地ってわけじゃない。馬に乗るのは好きだけど、商売は商売だからいい結果を出したい」

 石崎の今年の目標はただひとつ。5500勝である。駿は少年時代、武豊にこう声をかけられたことを誇りにしている。

「僕は石崎さんを尊敬しています。日本一、乗っている人だからね」

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