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青学大・原晋監督が“傷だらけのエース”に「4年間、ありがとう!」…出岐雄大が振り返る“最後の箱根駅伝”「どんな状態でもゴールしようと」

posted2024/01/06 11:02

 
青学大・原晋監督が“傷だらけのエース”に「4年間、ありがとう!」…出岐雄大が振り返る“最後の箱根駅伝”「どんな状態でもゴールしようと」<Number Web> photograph by Asami Enomoto

満身創痍で“最後の箱根駅伝”に挑み、ゴールテープを切る青学大4年時の出岐雄大さん。アンカー起用の裏には、原晋監督の熱い思いがあった

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小堀隆司

小堀隆司Takashi Kohori

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Asami Enomoto

“絶不調”のまま最後の箱根駅伝を迎えた出岐雄大さんは、青山学院大学の原晋監督から最終10区での起用を伝えられる。なんとか恩師の思いに応えるも、実業団入りした頃には心身ともに限界を迎えつつあった。「走ることは苦しいままでした」――箱根路に鮮烈な印象を残した天才ランナーが、25歳での引退の真相を明かした。(全3回の3回目/#1#2へ)

声を詰まらせて語った“最後の箱根の思い出”

 4年生で迎えた最後の箱根駅伝。足の状態がまだ万全ではなかったにもかかわらず、出岐雄大さんは強行出場を果たした。それもやはり、周囲の期待に応えたかったからだった。

「もうずっと足の感覚がおかしくて、箱根の1週間前にもふくらはぎを攣った感覚があったんです。その頃、(原晋)監督と奥さんに近くの焼き肉屋に連れて行ってもらって、3人で話をしたんですね。監督からは『アンカーを考えている』と伝えられました。でも本当に調子が良くなかったので、私からは『同じ4年生に譲ってください』って話もしたんですけど、それでも監督が説得してくれて……」

 出岐さんが思わず声を詰まらせる。目に涙を浮かべながら続けた。

「やっぱり監督は……自分が4年間やってきたことに対して言ってくださったと思うので、もうどんな状態でもゴールしようと思って。最後の年は、だから、順位とかタイムは考えずに、ただその思いに応えたい一心でした」

 前年までの弾むような足取りは息をひそめ、時に苦しげに、一歩一歩できる限りのペースを刻んだ。10区アンカーの大役を務め、残りが1kmを切ったところで、後ろを走る運営管理車から原監督の声が飛ぶ。

「4年間、ありがとう! よく頑張った」

 その言葉を聞いて、出岐さんは4年間の頑張りが報われた気がしたという。

「偶然かもしれないんですけど、1年生で1区を走って、4年生で最後に10区を走ってゴールができた。区間14位でしたけど、チームとしてはシード権も守れましたし、本当はそこで終わっても良かったんですよね……」

「五輪に出て辞める」ことがモチベーションだった

 箱根には良い思い出しかない。だからといって、それが陸上を続ける理由にはならなかった。3年生で初マラソンに挑んだのは自らの意思だったが、じつはそこにもこんな理由があったという。

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