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「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日

posted2023/12/30 11:05

 
「おい、張本おれへんのか」“大阪で一番ケンカが強い”張本勲との決闘未遂…大阪のヤンチャな高校生がアントニオ猪木と同門レスラーになった日<Number Web> photograph by Getty Images

1960年、力道山(右)からスカウトされ、日本プロレスに入団したアントニオ猪木(当時17歳)

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細田昌志

細田昌志Masashi Hosoda

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昨秋に79歳で亡くなったアントニオ猪木。彼と同門レスラーだった「琴音竜」のインタビュー。20歳前後の猪木はどんな下積み生活をしていたのか?【全2回の前編/後編も公開中】

◆◆◆

 さほど語られないが、2023年は“日本プロレスの父”にして“戦後復興のシンボル”力道山が亡くなって60年という節目の年だった。

 2022年秋、アントニオ猪木が鬼籍に入って、力道山の直弟子で存命なのは、北沢幹之とグレート小鹿だけとなった。グレート小鹿に至っては、80歳を過ぎた今もリングに立っている。

 しかし、実際は直弟子はもう一人いる。プロレスラーではない。元プロボクサー「琴音竜」こと琴音隆裕(82歳)である。

「日本人でもジョー・ルイスやフロイド・パターソンのようなヘビー級ボクサーを世に送り出したい」という大願を抱いた力道山は、自らがオーナーとなり、毎日新聞運動部記者の伊集院浩を会長職に迎え『リキボクシングクラブ』を開設する。広く練習生を募集すると、大勢のボクサー志願者が集った。琴音はボクシング志願者ではなかったが、成り行き上、第1号ボクサーとなった。1962年にデビュー、東日本ミドル級新人王を獲得するなど、将来を嘱望されていた。

 しかし、プロ戦績わずか6戦でグローブを置くと、それ以降は実業家としての道を歩み、力道山門下生OBの重鎮、あるいは周旋役として、影響力を持ち続けた。

 その琴音隆裕の数奇な半生を振り返りつつ、2023年に60周忌、2024年には生誕100年を迎える師・力道山と、同門の兄弟弟子として共に汗を流し、友人として生涯付き合ったアントニオ猪木の想い出を聞いた。

「おい、張本はおれへんのか」

 琴音隆裕は1941年2月10日、宝塚市に生まれた。出生名は金子一雄。父親は建築業を営み、自宅の庭には、常時100人もの労務者が寝泊まりする飯場が建っていた。

「俺は今でいう在日韓国人で、一族は父親の代に朝鮮半島から渡ってきた。ただ、当時は日本統治下だから、父親は日本人として渡来してきただけ。ただ、その関係もあって、働いていた労務者の大半が朝鮮人で、父親は親方として彼らを雇って、寝泊まりさせていた。親父は金も持ってたから、女もたくさん作ってたね。ありゃ『血と骨』の世界だ。喧嘩も博打も日常茶飯事で、俺はそれを当たり前のように見ながら育った。だから、腕力に自信を持つようになったのも、自然なことだったんだ」

 大阪の天満高校(現・太成学院大学高校)に進学すると、一年生で番長を倒し「天満に金子あり」と呼ばれるようになる。しかし、この頃「大阪で一番喧嘩が強い」と呼ばれたのが、浪華商業高校(現・大阪体育大学浪商高校)の野球部で名を馳せていた同学年の張本勲(現・野球解説者)だった。梅田の駅前で浪商の生徒を見かけると「おい、張本はおれへんのか」「張本に伝えとけや、天満の金子が待ってるから」と片っ端から声をかけた。一対一の決闘をするためである。

【次ページ】 力道山「お前、やれるか?」「やります!」

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