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「はっきり言えば、クビでした」青学大・原晋監督が実業団ランナーを引退した日…「会社員としても戦力外に近かった」元選手サラリーマンの逆転物語

posted2024/01/14 06:00

 
「はっきり言えば、クビでした」青学大・原晋監督が実業団ランナーを引退した日…「会社員としても戦力外に近かった」元選手サラリーマンの逆転物語<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

今や箱根駅伝の名物監督となっている原晋。現役時代はどのようなランナーだったのか

text by

生島淳

生島淳Jun Ikushima

PROFILE

photograph by

Nanae Suzuki

 10年間で7度の箱根駅伝優勝を成し遂げた青山学院大学の原晋監督。テレビのコメンテーターとしても活躍する名将はどのようにして箱根の頂点を毎年狙える組織を作り上げていったのか。その原点となった現役時代を『箱根駅伝 ナイン・ストーリーズ 』(文春文庫、2015年12月刊)より紹介する。肩書はすべて当時のもの(全3回の第1回/第2回第3回へ続く)。

中京大卒の原と青学大を結びつけた縁

 中京大学出身の原にとって、箱根駅伝は縁遠い存在だった。大学卒業後、中国電力のサラリーマンとして働き、陸上からは足を洗っていた原が、青山学院大陸上競技部の監督になったのは、不思議な「縁」としかいいようがない。

 青山学院大は都会的なイメージが強い。スポーツ界では井口資仁(ただひと)(現・千葉ロッテマリーンズ)など一時期はプロ野球選手を輩出したが、陸上界では無名の存在だった。箱根駅伝には戦前の1943(昭和18)年に出場しているが、戦後になってからは1976年を最後に、予選会を突破できなかった。

青学大は駅伝に「経営資源」を集中投下

 大学側が本格的な陸上の強化に乗り出したのは、2003年のことである。21世紀に入り、大学によっては“生き残り戦略”の一環としてスポーツの強化を明確に打ち出していた。箱根駅伝は平均視聴率が25パーセントを超える優良コンテンツであり、しかも開催時期が大学入試の出願前とあって、PR効果も高い。

 青山学院大は駅伝だけでなく、野球、ラグビーにも援助を行っていたが、力を分散していては効果も散漫になるとして、駅伝に「経営資源」を集中的に投下することを決めた。

 長距離の強化に当たっては、指導者を探すことが重要だ。そこで白羽の矢が立ったのが原だった。

原晋の反骨心

 原は広島の名門校、世羅(せら)高校から中京大に進み、卒業後は郷里の中国電力に就職した。青山学院大とは縁もゆかりもない。

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原晋
青山学院大学

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