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「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後” 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/04/24 11:02

「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後”<Number Web> photograph by KYODO

モスクワ五輪ボイコットの動きが強まる中で開かれた緊急強化コーチ選手会議(1980年4月21日)。参加を訴えて涙を流したレスリングの高田裕司

 再び代表に選ばれた長だが、ボイコットにより道は断たれた。それにもかかわらず代表合宿を行おうとする日本自転車競技連盟に対し、長は代表辞退を申し入れた。このため、幻のモスクワ選手団名簿167名のなかに彼の名前はない。ボイコットが決まったとき長は、《いつの日か連盟、体協、JOCの不当な仕打ちに何らかの形で復讐したい》と怒りをあらわにした(長田渚左『こんな凄い奴がいた』ベースボール・マガジン社)。ただ、長は怒ってばかりではなかった。今後に向けて次のような建設的な意見も述べていた。

「やっぱり(日本の)スポーツ界に力がない」

《私がモスクワ五輪から学びとったことは、スポーツの領域を犯されないために、自分たちがパワーを持たなければいけないということです。そのためには、まず被害者意識をかなぐり捨てて、自分たちの力のなさを深く噛みしめていくことから出発しなければならないと思うんです。/オリンピックに出場できなかったのは悔やしいことには違いないんですが、私はこれまでやってきたことに後悔はありません。プロに行かずに五輪をめざしたのも、自分の生き方の姿勢を貫くためにやったことですから。これからは、そこで培ったものを、スポーツ界の改革と、スポーツ選手の意識革命へ向けてぶつけていきたいと思っています》(『週刊プレイボーイ』1980年8月12日号)

 残念ながら、長はこのあと表舞台を去り、スポーツ界の改革のため具体的に行動した形跡はない。しかし、彼の提唱したことは、山下泰裕がモスクワ五輪を振り返っての《やっぱり(日本の)スポーツ界に力がないな、と思いました》との述懐とも重なる。これは2008年の発言だが、山下は続けて《だから、自分がもっとしっかり頑張って、同じようなことが再び起きても、出るか出ないかに対して、我々は我々で判断する。自立した団体にならないといけないと思います》と改めて決意を表明していた(前掲、『五輪ボイコット』)。

 その山下はいまやJOC会長の座にある。先の米国務省の報道官による北京五輪のボイコットの可能性を協議したいとの発言を受けて、山下会長は《政治的理由でボイコットがあるべきではない。それは私が経験している、いないに関係なくです》と語気を強めたという(「デイリースポーツ online」2021年4月7日配信)。いかなる結論を出すにせよ、JOCは、スポーツ界は、自主性を守り抜かねばならない。それこそが山下たちが五輪ボイコットという苦い経験から学んだ最大の教訓だろう。

(【続きを読む】41年前のナベツネ「モスクワ五輪は中止すべきだ」 20億円を投資したテレ朝責任者の“恨み節”「俺は失脚した」 へ)

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