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<ウイグル問題>北京五輪ボイコット論で思い出す 「41年前モスクワ五輪の悪夢」“不参加”を決めたJOCの悲しい本音

posted2021/04/24 11:01

 
<ウイグル問題>北京五輪ボイコット論で思い出す 「41年前モスクワ五輪の悪夢」“不参加”を決めたJOCの悲しい本音<Number Web> photograph by KYODO

モスクワ五輪、男子1500メートルで優勝したセバスチャン・コー(イギリス)のゴール。サッチャー首相の勧告に反し、イギリスの選手たちはモスクワ五輪に参加した

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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KYODO

 4月6日、米国務省のプライス報道官が記者会見で、来年2月に予定される北京冬季五輪について、中国の人権問題への懸念から、ボイコットする可能性を同盟国と協議したいとの意向を示した。米国のバイデン政権は、中国の新疆ウイグル自治区でのウイグル民族などに対する人権侵害を強く非難し、これを否定する中国政府と対立を深めている。それだけに国務省報道官の発言は波紋を広げたが、これに対し翌日には、ホワイトハウスのサキ報道官が「同盟国などとボイコットをめぐる協議は行っていない」と述べ、政権側が事態の沈静化を図る格好となった。

 今回の国務省報道官発言をきっかけに、日本でも北京冬季五輪に参加すべきかどうか議論が起こっている。そこでにわかに引き合いに出されるようになったのが、いまから41年前、米国や日本などが実際にボイコットに踏み切ったモスクワ五輪だ。

 1980年に当時のソビエト連邦の首都で開催された同五輪は、米国とソ連の両大国がそれぞれ資本主義陣営と社会主義陣営の盟主として対立した東西冷戦を背景にしていたことを思えば、隔世の感がある。しかし、状況的に現在と重なるところも少なくない。

“モスクワ五輪ボイコット”はこうして始まった

 たとえば、モスクワが開催都市に名乗りを挙げたとき、対立候補は米国のロサンゼルスだけだった。それというのも、1970年代前半のこのころには、カナダのモントリオールなど五輪のために開催前から莫大な借金を抱える都市も出てきて、立候補する都市がほとんどなくなっていたからだ。そうしたなか、1974年のIOC総会でモスクワが開催都市に選ばれたのは、《ソ連のような強権的な大国ならば、必要な大量のリソースを強制的にほしいままにできるというのが理由だった》との見方もある(デイビッド・ゴールドブラット『オリンピック全史』志村昌子・二木夢子訳、原書房)。開催費用の増大から立候補する都市が減り、そのなかで強権的な大国での五輪が決定されるという状況は、いまとよく似ている。

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