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「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後” 

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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posted2021/04/24 11:02

「お前は国に従いなさい」「いつか復讐したい」41年前モスクワ五輪ボイコット、人生を狂わされた選手たちの“その後”<Number Web> photograph by KYODO

モスクワ五輪ボイコットの動きが強まる中で開かれた緊急強化コーチ選手会議(1980年4月21日)。参加を訴えて涙を流したレスリングの高田裕司

オリンピックのシナリオが狂い始めた

 瀬古は1978年の福岡国際マラソンで優勝し次世代のエースとして脚光を浴びると、モスクワ五輪を挟んで79年、80年と同大会で3連覇を達成している。ともにモスクワでの表彰台独占を期待された宗茂・猛兄弟というライバルはいたにせよ、当時の彼は怖いもの知らずだった。モスクワ不参加が決まっても、悔しいことは悔しかったが、チャンスはまだあると信じて疑わなかった。しかし、あとになって振り返れば、オリンピックに関してシナリオが狂い始めたのはこのときであったと、20年後に語っている。

《やっぱり、あそこであせりが生じてたんですね。「次のチャンス」を必要以上に意識して、借りを返すって感じでがんがんやって、肝心のオリンピックの前にくたびれ果てて。(中略)悪い時って、ああいうもんなんでしょうけどね。でも、モスクワで走ってたら、ああはならなかったんじゃないかって思いますよ。もし、あそこで一度オリンピックを経験してたら、僕も中村先生も、もう少し余裕を持ってロスにのぞめたんじゃないか。たとえモスクワで勝ってはいなくても、ゆっくり休んで次を狙おうってことにはなってたんじゃないかって思うんです》(『毎日ムック シリーズ・20世紀の記憶 かい人21面相の時代』毎日新聞社)

 瀬古はオリンピックととにかく相性が悪かった。その前後は勝利を重ねるのに、五輪直前になると調子を崩した。ロサンゼルスでは慣れない真夏のレースも災いして、14位に終わる。それまで日本のマラソン大会は主に冬に開催され、瀬古にかぎらず、ほとんどの選手が暑いなかでのレースに慣れていなかった。ヱスビー食品陸上部の村尾慎悦マネージャーは後年、モスクワ五輪を経験していれば暑さへの不安は払拭できただろうと語っている(武田薫『マラソンと日本人』朝日選書)。

 1988年のソウル五輪では、代表選考会となった前年暮れの福岡国際の直前に足をけがして欠場、翌春のびわ湖毎日マラソンで優勝してどうにか出場権を得たものの、本番は9位に終わり、その年かぎりで引退した。

「いつか、何らかの形で復讐したい」

 ここまで挙げた選手たちは、たしかにモスクワ不参加で打撃を受けたとはいえ、いずれも現役時代はスター選手であり、のちには指導者や競技団体の役員としても活躍することになった。だが、一方では、モスクワに賭けながら、ボイコットによって人生を狂わされた選手もいた。自転車競技の長義和(当時、島野工業勤務・26歳)はその代表例だ。

 長は五輪初出場となったミュンヘンでは予選落ちだったが、次のモントリオールではスプリント(スクラッチ)で6位に入賞した。これを機に自転車競技を志す人が増えればと願いながら帰国するも、空港での記者会見ではそっけない対応をされ、入賞しただけでは世間は注目してくれないと痛感する。そこでプロ転向を考え、競輪学校を応募資格の年齢制限ぎりぎりの23歳で受験した。その実力からすれば合格は間違いなかったが、最終発表を前に辞退してしまう。記者会見でのみじめな気持ちを再び味わいたくないとの思いからだった(『週刊朝日』1980年6月27日号)。こうして長はアマチュアにとどまり、モスクワでメダル獲得を目指そうと決意する。

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