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浦和とACLは切り離せない関係だ。
10年ぶり制覇へ、改革の集大成を。
posted2017/11/18 08:00
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph by
Getty Images
「あれは浦和で最後にとったタイトルなので、やはり特別な想いはあります。アジアレベルではあったけれど、Jとは違うので、自信になった部分はありました」
長谷部誠が2007年のACL優勝について、そう振り返る。アジア代表としてのクラブワールドカップ出場を最後に、'08年1月にはドイツ・ヴォルフスブルクへの移籍を果たしている。
今回10年ぶりにそのタイトルに王手をかけている浦和レッズについて、時計の針を大きく戻して、振り返りたい。
規律をもたらしたオフト、カリスマ性のあったギド。
「オフトが辞任するって」
'03年秋、今は無き国立競技場の廊下やロビー、記者会見場、ミックスゾーンなど、あらゆる場所でそんな声が飛び交った。浦和レッズの初タイトル獲得の歓喜を打ち消すショッキングなニュースだった。特別な喜びに水を差すことはなくとも「またもお家騒動か」と揶揄する声も広まっていた。
'01年、かろうじてJ1残留を果たした浦和は、翌'02年シーズン森孝慈GMが大改革を行った。その象徴として就任したのがハンス・オフト監督だった。規律を数多くチームにもたらした教育者タイプのオフトによって、鈴木啓太や田中達也をはじめとした若い選手たちが徹底的に鍛えられ、長谷部もそのひとりだった。
就任初年度はリーグ戦こそ振るわなかったが、ナビスコカップ決勝の舞台に立った。そして翌シーズン、前回の決勝で苦渋をなめた鹿島アントラーズを破り、見事カップを掲げたのだ。
しかし、'02年に就任した犬飼基昭社長とオフト監督との関係は良好とは言えず、「3年でチーム再建」という計画が頓挫することになったのだ。
'04年に就任したギド・ブッフバルトは元ドイツ代表選手かつ、浦和OBというカリスマ性と人間味あふれる監督で、選手たちのモチベーション・コントロールに長けていた。規律重視のオフトの元で鍛えられた選手たちが、ギドの元で自主性を求められた結果、その可能性を大きく開花させることになった。