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「この人となら、どんな困難も越えられる」樋口敬洋、マラソン伴走者の使命《金メダリスト・道下美里との14年間》

2025/07/29
社会人になってから趣味で始めたマラソン。しかし、偶然の出会いが運命の歯車を動かす。支えたい気持ちと、どうにもならない現実。葛藤を抱えながら今日も男はガイドを続ける。(原題:[ナンバーノンフィクション]樋口敬洋 伴走者の使命 金メダリスト・道下美里との14年間)

 東の空がうっすらと白み始めるころ、福岡市の真ん中にある大濠公園の池は、静かに朝を迎えていた。並木の影はまだ濃く、水面に映る街の明かりは、夜の名残のように淡く揺れている。頬をかすめる風は少し冷たく、まるで空気さえも眠たげだった。

 その静寂を切り裂くように、一定のリズムで刻まれる足音が近づいてくる。響くのは、二人のランナーの足音。絆という名の一本のロープでつながれたその歩調は、ひとつの生き物のように滑らかだった。

「右です、あと3歩でカーブ」

 伴走者として声をかけるのは、歯科医院を経営する樋口敬洋。隣を走るのは、パラリンピック金メダリストでブラインドランナーの道下美里だ。見えないはずの目に、一切の迷いはなかった。頼りは一本のロープと、樋口の声と気配。それに呼吸のリズムと音の強弱――そのすべてを、彼は精密にコントロールしていた。

 樋口がマラソンに心奪われたのは、東京で歯科医をしていた31歳の夏。ふと立ち寄ったスポーツ店で、「第2回 東京マラソン」のポスターに目が留まった。翌春には福岡で父の医院を継ぐ予定だった。東京生活の締めくくりとして何かに挑戦したい――その一心で、初のフルマラソンに挑み、完走。走る喜びが体の芯まで染み渡った。

 続いて彼を夢中にさせたのは、自然の中を駆け抜けるトレイルランニング。その荒々しくも美しい世界を、彼は夢中で突き進んだ。やがてこのトレイルランとの出合いが、思いも寄らぬ形で樋口と道下をつなぐことになる。

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photograph by Kazumichi Kidera

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