“遠藤ブラザーズ”と西野朗の結びつきは深い。
兄・彰弘は1996年アトランタ五輪代表で10番を背負い、ブラジル代表を撃破する「マイアミの奇跡」を起こしたメンバーの一人。弟・保仁はガンバ大阪の攻撃サッカーの中核を担い、2005年のJ1初制覇、'08年のACL優勝など多くのタイトルを獲得。10年にわたって西野のもとでプレーしている。
時の人になったアトランタでの旋風と、名将に押し上げたガンバでの成功。2人が語る西野朗の実像とは―。
―ハリルホジッチ監督の契約解除に伴い、技術委員長だった西野さんが監督に就任した際、驚きはありました?
彰弘 まったく驚かなかったですね。外国人監督を連れてくる時間もないだろうし、個人的には岡田(武史)さんか西野さん、そのどちらかだろうなって。
保仁 本大会の2カ月前でしょ。このタイミングでは(内部に)限られてくるんじゃないかとは思っていました。
―細かく指示していくタイプではなく、選手の判断を尊重する監督というイメージがあります。実際、アトランタ五輪のときはどうでした?
彰弘 あのブラジル戦、僕のポジションは右のアウトサイドで対面にはロベルト・カルロスがいました。指示は「バランスを取れ」と言われたぐらいで、臨機応変にやってくれということでした。5バックみたいになりましたけど、あれはロベカルに下げられたようなもの。そういったことも自分たちで判断していきました。
保仁 当時僕は高校2年。U─16代表の遠征でタイに行ってたんですよ。確か、ホテルのロビーでブラジルに勝ったと聞いて“うわっ、すげえ”ってみんなで驚いた記憶があるかな。ハイライトで試合を見て、(川口)能活さんが止めまくって、テルさん(伊東輝悦)がポンと押し込んだシーンはやっぱり記憶に残っていますね。
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