今年45歳。そのバットで数々の栄冠を掴んできたレジェンドが、24年の現役生活に別れを告げた。稀代の名スラッガーが今語る、自らを奮い立たせた挫折と葛藤、そして若竜に託した思いとは――。
福留孝介は穏やかな秋を迎えていた。ナゴヤ球場のバックネット裏スタンドに立ち、グラウンドに描かれたダイヤモンドを見渡す。秋季練習に汗を流すユニホーム姿を眺めても、球音を耳にしても、心が急きたてられることはなかった。
「球場に来ても、野球をやらなきゃいけない、トレーニングしなきゃいけないと焦らなくなった。こんな気持ちになったことは今までなかったかな」
そう笑った顔からは戦士の棘が消えていた。21歳のプロ入りから毎年、春から秋口までペナントレースを戦い、冬になる前にトレーニングを始めてきた。常に最前線の緊張感に身を浸してきた福留にとって、45歳にして初めて訪れた解放の季節だった。
「引退した途端に近くの文字が見づらくなったような気がする(笑)。筋肉も少し落ちた感覚があるかなあ」
福留はそう言うと、二の腕や大腿部に触れた。ラストゲームからまだ1カ月も経っていないが、もう変化が起き始めているという。バットを置き、ユニホームを脱いで、戦いの場から解放された途端に心と体が一般的な四十代のそれに近づいていく。あらゆることが変わっていく。
そんな中でひとつ変わらないものがあるとすれば、それは彼の手ではないだろうか。握手をすると分かる。福留の右手の平は、かつても今も、硬く、分厚く、ざらりとしている。峻険な岩を思わせる質感は野球を生業とする者たちの中でも異質であり、バットとの接点だったこの部分だけは、いまだ険しい戦いの表情を崩していなかった。
特製トートバッグ付き!
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
photograph by Keiichiro Natsume