#1056
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[最後の夏からはじまった(2)]村上宗隆「大砲を育てた“もう一回”への日々」

2022/08/06
グラウンドに出れば誰よりも大声で仲間を鼓舞し、ここ一番では自らのバットで試合を決める――。球界を代表するスラッガーの原点は、高校時代にあった。県内の“宿敵”としのぎを削り、味わい続けた敗北。恩師と後輩の記憶で、頼れる主将の姿を描き出す。

 2015年、高校1年の夏、村上宗隆は甲子園の土を踏んだ。九州学院の4番打者として。結果は初戦負けだったものの、この初舞台は彼にとって序章にしか過ぎず、甲子園の再訪は約束されている。誰もがそう感じていた。

 1995年から九州学院を率いる坂井宏安は、夏の甲子園が終わってから村上を一塁手から捕手へとコンバートした。坂井の観察によれば、村上は記憶力が抜群であり、この能力を生かさない手はない。もしも、捕手として配球を勉強すれば、打者として応用が利くようにもなるはずだ。

 打撃では、「器」を大きくしてほしいと考え、徹底してフライを打つように指導した。

「ムネ、内野ゴロを打ったらいかん。そのかわり、内野フライになってもいいけん、球にスピンばかけて、遠くへ飛ばすイメージして打て」

 村上はその教えを忠実に守り、ボールを遠くへと運ぶことを意識するようになった。

 村上とバッテリーを組む1学年下のサイドスロー投手、田尻裕昌は何度も村上のアーチを見た。田尻が最も度肝を抜かれたのは、明治大学との練習試合だった。村上の学年では、早稲田実業の清宮幸太郎が有名で、それに比べて村上は全国区というわけではなかった。おそらく、大学生も村上のことは知らなかっただろう。ところが、村上はどでかいホームランを放ち、明治の学生を唖然とさせた。田尻は村上から打撃の極意を聞いたことがあった。

「バットじゃない。体の中で打つんだ」

 手先ではなく、体の芯から生まれた力をバットに伝え、球を弾き返す。それが強打の源泉だった。村上は最終的に高校3年間で通算52本塁打を記録するが、甲子園でアーチを架けることはなかった。なぜか?

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photograph by Hideki Sugiyama

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