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「ここに書かれる言葉が、激アツなんです」前橋育英はなぜ全国制覇できたのか…指揮官・山田耕介「65歳の情熱」と「でっかい模造紙」《高校サッカー選手権優勝》

2025/03/11
今年1月、PK戦10人目までもつれ込む死闘を制し、「タイガー軍団」が2度目の高校選手権制覇を果たした。しかし半年前、彼らは県予選敗退という絶望を味わった。65歳の名将は、いかにしてチームを立て直したのか。「人間力」を重視する、その指導の真髄に迫る。(原題:[選手権制覇への成長録]前橋育英高校サッカー部「虎を導く情熱」)

 全国制覇のわずか半年前、虎たちは泣いていた。嬉し涙ではない。悔し涙である。夏のインターハイ群馬県予選準決勝で、波乱は起きた。前橋育英は共愛学園にPK戦の末、敗れた。

 黄色と黒の縦縞ユニフォームから全国の高校サッカーファンに「タイガー軍団」の愛称で親しまれる。これまでインターハイで頂点に立つこと2回、7年前には悲願の高校選手権制覇も果たした。当然、この予選も優勝の大本命として臨んでいた。

 まさかの結末を受け入れるのは難しかった。3年生たちはがっくりと肩を落とし、下級生たちは気まずそうにバスへ乗り込む。キャプテンの石井(はる)は悔しさのあまり、周囲に怒りをぶつけていた。

 そんな主将の姿を、指揮官の山田耕介はどこか“懐かしそう”に見つめていた。

「僕の高校時代を見ているような気がしてね。ハルは、自分に厳しいし、他人にも厳しい。僕もまさにそういうタイプでしたから。小嶺先生の教えをチームメイトに伝えなきゃと思うあまり、口調も厳しくなって、いつの間にかコーチみたいになっていた。だから、同級生に言われたことがあるんです。『耕介、違うと思うぞ。お前にも悪いところがいっぱいあるやねえか』ってね」

 長崎県生まれの山田は、高校サッカー界伝説の名将、故・小嶺忠敏の教え子である。後に国見を6度の選手権優勝に導く小嶺が島原商業の監督を務めていた1977年、山田は主将として同校史上初のインターハイ制覇を成し遂げた。法政大学を卒業後、'82年に前橋育英サッカー部監督に就任。虎柄ユニフォームのデザインも、島原商業の白と黒の縦縞をモチーフに山田が考えた。

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photograph by Takuya Sugiyama

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