西武、巨人の主砲として計8度の日本一を経験した男は自身を導いた「智将」と「カリスマ」に何を感じていたのか。10度にわたる日本シリーズの成功・失敗談を明かす。
――通算10度の日本シリーズで特に記憶に残っている年はありますか。
「ルーキーだった1986年です。相手のカープの4番は、前の年までテレビで見ていた山本浩二さん。試合前にスコアボードを見たら、その人と同じ4番に自分の名前があって、もの凄い責任を感じました。僕が4番を打ち始めたのは、リーグ優勝を決める直前、川崎球場のロッテ戦(127試合目)でしたから。え? 日本シリーズでも4番? という感じで。相手の投手によって打順を変えるんだと思っていました」
――森祇晶監督はシリーズ全試合で19歳の清原さんを4番で起用するわけですが、初戦の引き分けの後、3連敗スタートでした。
「いきなり崖っぷちです。自分自身も、第1戦で左足(親指)に自打球を当てて、亀裂骨折してしまった。これ、最後までもつのかな……と不安になりました。でも監督がせっかく4番で使ってくれているわけですから、(左足親指の)爪の脇に痛み止めの注射を打って、座薬をいれて、ボルタレン飲んで、次の試合も出ました」
――最終的には3連敗の後の4連勝で逆転日本一に。清原さんもシリーズ最高打率(.355)を記録されたわけです。
「カープの投手陣も、この19歳、本当に打つの? と半信半疑だったんだと思います。西武には石毛(宏典)さんや秋山(幸二)さんがいて、バランスのとれた打線だったので僕はノーマークだったんです。相手が清原をつぶせという空気を出してきたのは、もっと後のことで、そういう意味では、野村(克也)さんのヤクルトとやった時はシリーズの厳しさを知りました」
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photograph by Takuya Sugiyama