ヤクルト監督就任とともに標榜した「ID野球」は、その後の名将の代名詞とも言える言葉になった。データ重視の野村野球の実態は。そして球界に与えた影響とは。間近で支えた歴代の側近たちに、あの革命の意義を問う――。(Number999号掲載)
ID野球――。1年、野村克也がヤクルトスワローズの監督に就任した際に掲げたスローガンだ。彼の代名詞でもあるこのフレーズが誕生してから、すでに30年が経過した。「Import Data(データ重視)」の略称である「ID」とはどんな野球なのか、その解釈は人それぞれだ。稀代の名将が天に召された今、野村の右腕として、彼の求める野球を追求し続けた参謀たちに「野村野球とは?」「ID野球とは?」と共通の質問を投げかけたところ、その答えはさまざまだった。
人生を賭して野球と向き合い、その真髄を求め続けた野村克也は、日本プロ野球に何を遺したのか? 日本球界をどのように改革したのか? 改めて問いたい。
ID野球とは何だったのか?
「当時、大腸がんになったんですよ。間違いなくノムさんが原因で(笑)」
秋田県秋田市――。笑顔で出迎えてくれたのはノースアジア大学野球部のユニフォームに身を包む伊勢孝夫だった。無類の勝負強さで、現役時代には「伊勢大明神」と畏れられた彼は現在、秋田の地で大学生を相手に「野村野球」を伝授している。
「とにかくノムさんからの注文は細かい。それに応えようと一生懸命に準備をする。それでも、あの口調でぐちぐち、ぐちぐち文句を言われる。医者に言われたよ、『原因はストレスだ』って。納得の理由やね」
'90年に野村がヤクルトの監督に就任してから、'95年オフに古巣に請われて、伊勢が近鉄バファローズに移籍するまでの6シーズンをともに過ごした。この間はいずれも「監督」と「打撃コーチ」という立場で両者の関係は続いた。
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photograph by Kyodo News