立ちふさがったのが、「ID野球」の野村ヤクルトだった。
稀代の知将が感じた2人の凄み、そしてその攻略法とは――。
長嶋茂雄と松井秀喜がそろって国民栄誉賞を受賞した。
野球界では王貞治、衣笠祥雄につづく受賞である。ジャイアンツという人気チームでつねにファンとマスコミの大きな注目を集め、それに応えるプレーを見せてきた長嶋。その長嶋に手塩にかけて育てられ、メジャーリーグでも名門ヤンキースの中心として活躍した松井。国民栄誉賞がどんな基準で与えられるのかは、私などにはわからないが、ふたりの受賞は多くの人が納得するものだろう。
人づてに聞いたのだが、ふたりの受賞が決まったとき、「残した数字でいうなら野村にも賞を与えてよいのではないか」という声があったそうだ。私自身はとても賞に値するなどとは思っていないが、こうした声をいただけたのは名誉なことだと思っている。
長嶋が監督として指揮を執り、松井がジャイアンツの中軸に座っていたのは1993年から2001年まで。これは私がスワローズ、タイガースの監督をしていた時期と重なる。
当時のジャイアンツは松井だけでなく、落合博満、清原和博など他チームの主軸をつぎつぎに獲得し、巨大戦力を作り上げていた。その巨大戦力に戦いを挑み、リーグ優勝4回、日本一3回という成績を残せたことは、私にとって大きな誇りだ。
「私がジャイアンツを口撃すれば、マスコミは大きく取り上げる」
1935年6月29日、京都府生まれ。'54年テスト生として南海ホークスに入団。'65年に戦後初の三冠王に輝く。ロッテ、西武を経て'80年現役引退。'89年に野球殿堂入り。'90年ヤクルトの監督に就任し、リーグ制覇4回、日本一を3回達成。阪神、シダックスを経て、'06年から'09年まで楽天監督。'13年4月、日本体育大学の客員教授に就任した。
スワローズ時代の私は、長嶋率いるジャイアンツにしばしばきびしい言葉を投げつけた。これは「絶対に負けたくない」という闘争心の表明でもあったが、同時にかなり意図した戦略的なものでもあった。
私がスワローズの監督に就任したのは1990年。若くて有望な選手はいたが、低迷が長くつづき、観客動員が落ち込んでいた。その打開策を相談された私は、ジャイアンツを標的にすることを提案した。特に長嶋が監督に復帰した'93年からは、意識して「口撃」の対象にした。
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