10代の頃は、明らかに香川より柿谷だった。だが、いつしか2人の
立場は逆転してしまう。未熟さゆえの挫折を経験した22歳は、
遥か先を行く香川の姿に何を思うのか。関係者と本人の証言から、
天才の葛藤に迫る。
立場は逆転してしまう。未熟さゆえの挫折を経験した22歳は、
遥か先を行く香川の姿に何を思うのか。関係者と本人の証言から、
天才の葛藤に迫る。
アスリートにとって、才能とはなにか――。
フジタ工業や大塚製薬でプレーし、引退後は横浜マリノスのユース監督などを経て多くの逸材に接してきた中田仁司は、この問いかけに対する明確な答えを持てずにいた。アスリートが成功するかどうかは、それぞれの時代や環境、運にも左右されるからだ。だが、その少年を「天才」と呼ぶことには迷いがなかった。
「ひとことでいえば、まだ子供なのに大人の感覚でサッカーをしていました。普通、大人のコーチに『走れ』と言われたら、子供たちは怒られたくないからどんな場面でも一生懸命走るんですが、彼は違った。ゲームのなかで、なにが必要でなにが無駄なのかわかっている。経験を積んで初めて身につくことを、すでに感覚として持ちあわせていたんです」
中田が横浜を離れ、セレッソ大阪のコーチとなったのは2000年。その少年、柿谷曜一朗はまだ小学5年生だった。
4歳のときからセレッソのサッカースクールに通っていた柿谷は、いつもU-12チームの練習が始まる1時間前にグラウンドに姿を見せ、1人でリフティングをしていた。いつからか、グラウンドに出て少年の相手をするのが中田の日課になった。
「大人でも受けにくいボールを蹴っても、ぴたりと足もとで止めて同じような回転のボールを蹴り返してくる。パスのレベルを上げても必死でくらいついてくるから、私のほうも楽しみながらボールを蹴ってました」
「同世代に彼の感性と響き合う選手はいませんでした」(中田)
そのままセレッソユースの統括責任者になった中田は、中学に進んだ柿谷をユースの選手たちと一緒にプレーさせたときのことも鮮明に記憶している。
特製トートバッグ付き!
「雑誌プラン」にご加入いただくと、全員にNumber特製トートバッグをプレゼント。
※送付はお申し込み翌月の中旬を予定しています
photograph by Takashi Iga