甲子園の風BACK NUMBER
「軍隊に馴染めなかった」名家の“お坊ちゃん”→特攻隊員になった男「戦争が蔦文也から“決定的な何か”を奪った」池田高校で甲子園を制覇するまでの苦境
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2026/09/03 11:00
池田高校を率い、3度の甲子園優勝を果たした蔦文也監督
田中 『戦中派』のなかで、前田さんは「通有性を探さない」をモットーにして、ひたすら個人の思いを何十通りも綴っていく。決して一括りにしない。だけど、読み終わると、戦中派の全体像がふわっと浮かび上がってくる。それが素晴らしいと思いました。僕には「言葉を信用しない」が戦中派のひとつの特徴のように感じました。膨大な資料と取材を冷静にまとめながら、時折出てくる前田さんの熱にも感銘を受けました。
同志社大に進学…エリートコースを歩んでいた
なぜ、前田は戦中派について執筆を始めたのか。原点は、母方の祖父にあった。1925年、名古屋市に生まれた小寺秀雄は18歳の時に鳥取の美保海軍航空隊に入隊。終戦時は山形の神町海軍航空隊にいた。前田は著書で戦中派を1917年から1927年生まれと定義。蔦も小寺も、同じ戦中派である。彼らは、価値観が右往左往する時代を生きてきた。
田中 蔦さんのご次男に取材すると、戦前の蔦家は刻みタバコの販売で成功し、地元では「名家」として知られていたそうです。蔦さんの父は息子に徳島中学へ進学することを希望していたのですが、当の蔦さんは「野球をしたい」という理由で徳島商業を選びます。大学は慶應には落ちたものの、同志社に一般受験で合格した。当時、高等教育の進学率は5%程度ですから、エリートコースを歩んでいました。その“お坊ちゃん”が戦争に駆り出されていく。どんな心境だったと推察されますか。
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前田 軍隊生活の受け止め方は、大きく分けて2通りあると思います。召集されるまで食うや食わずの状態だった人、非常に恵まれた生活をしてきた人では違うんですね。前者は恩恵を感じる。前線でなければ食事が支給されて、なおかつベッドで寝られますからね。後者は損害を被る。自分の意思に反して訓練を強制され、自由が制限されるからです。蔦さんは後者だったと考えられます。

