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「つづけていれば、何かある」入団テスト、育成指名、移籍…苦労人・DeNA堀岡隼人が「大半は苦しい」プロ生活を生き残って10年目に向かうわけ
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石塚隆Takashi Ishizuka
photograph byJIJI PRESS
posted2026/01/26 11:00
プロ通算で37試合登板のみと、華々しい活躍はまだできていない苦労人の堀岡隼人。それでもここまで生き残ってきた10年目のブレイクはなるか
「あの時期は本当に苦しかったし、自分でも何でこんなにやれないのかなって思いが強かった。6試合連続無失点にしても、いいときはいいんですけど、やっぱり僕は調子の波が激しいので、それがあそこでは出てしまいましたね」
調子の波をいかに小さくするかは、どの選手にとっても課題である。一度状況が負に働けば、取り戻すのは簡単ではない。
一軍再昇格もなかなか出番が来ず……
再び堀岡が一軍に呼ばれたのはシーズン終盤の9月15日だった。疲労の色を濃くしていたブルペンではあったが、堀岡はなかなかマウンドに立てず、いつ来るかわからない出番に向け黙々と準備をするしかなかった。
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チーム事情もあるが、結局シーズン終了まで帯同された堀岡が登板したのは1試合だけだった。巻き返しを狙っていたリリーバーは、ブルペンで不安ともどかしさを抱えていたという。
「前半(6月~7月)でチャンスを掴み切れなかった自分の責任です。9月に昇格した後は、投げたい気持ちは強いのですが、試合の間隔が空けば空くほど、試合勘が薄まるというか、投げるのが怖いという感覚がありました。チャンスが訪れるまでブルペンで準備をしたり、他の選手のサポートをしたりしていましたが、やっぱり前半でしっかりやっていればこういう思いはしないのだろうなっていう後悔というか、これまでとは違った悔しさがありました」
戦力としてブルペンにいるのに、出番がない現実。プロ野球人生で感じたことのない悔しさだった。
しかし、ここでくじけるわけにはいかない。先ほど堀岡は「心が折れたことはない」と語っていたが、そこには野球や周囲の人たちに対する熱い想いがあった。
青森山田高で甲子園の舞台に
1998年、神奈川県秦野市出身。野球と接することになったのは小学校1年生のときだった。親の勧めでプレーし始めたというが、ほどなくして堀岡は、多くの野球少年がそうであるようにプロを夢見るようになった。
その影響もあり中学生になると、秦野リトルシニアに入団し、硬球を扱うようになる。そして高校は縁あって推薦で青森山田高校に入学をしている。実はこのときはプロという意識は薄まっており「甲子園に行きたい」という気持ちが心の大半を占めていたという。
「ただ、もしかしたらプロになれるかもしれないと思ったのは、2年の秋に東北大会で初優勝したときぐらいからですね」
エースとしてマウンドに立つ高揚と責任。その後、青森山田高は神宮大会でベスト4に入り、3年になると選抜高等学校野球大会に出場した。ついに悲願の甲子園の舞台に立ったのだ。

