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山本由伸「実はヒジが痛かったんですよ」恩師に明かした衝撃の告白…高3の夏、誰にも痛みを告げずマウンドへ〈ワールドシリーズMVP熱投の原点〉 

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鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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photograph bySANKEI SHIMBUN

posted2025/12/13 11:00

山本由伸「実はヒジが痛かったんですよ」恩師に明かした衝撃の告白…高3の夏、誰にも痛みを告げずマウンドへ〈ワールドシリーズMVP熱投の原点〉<Number Web> photograph by SANKEI SHIMBUN

都城高3年、18歳当時の山本由伸(オリックス入寮時)

 山口は山本が肘を痛めていたことは知らなかったという。

「元々、色々と故障がちな選手だという情報はありましたし、それが他球団が指名になかなか踏み切れなかった1つの理由だったかもしれません。でも、僕はある試合を見て、そこを彼の絶対評価にしていました」

スカウトが見抜いてた絶対的資質

 その試合は5月31日の宮崎県大会の宮崎日大戦だった。この試合で山本は3安打14三振を奪う圧巻のピッチングで完封勝利を飾っている。その試合を統括スカウトも視察しており、そこがオリックスの山本への評価基準となったわけである。

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 実は山本は当初は高校卒業後に社会人に進む予定だった。しかしプロ志望届の提出期限直前に方針転換して、内定していた社会人チームに断りを入れてプロを目指すことを決断した。

 いまも都城で教壇に立つ当時の野球部部長の吉富幸一はその時の様子を振り返ってこう証言している。

「本当に賢い子で大人の話を聞いて、自分で決断して先に進む子でした。ドラフトの時も私は半信半疑で、もし指名されなかったらどう声をかけようかとか、そんなことばかりを考えていた。でも本人は飄々として、そういうことも含めて受け止めている。そんな感じでした」

 ドラフトで4位まで残っていたこと、そして4位でオリックスに指名されたこと。それもまたあの夏が導いた運命だったのかもしれない。

 いま山本はそう思っている。

「負けてしまったけれど、あの夏の直前にみんなで必死になって自主練習をして、その中で色んなことを考えて練習に取り組む習慣が身についたようにも思います」

プレゼントに書かれていた言葉

 それまで制限されていたブルペン入りの回数を増やしてもらうように石原に要望し、ランニングのメニューも考えてどんどん変えていった。

「最初は30分間走をして20分間走をして、10分間走して、という長距離走を毎日、毎日やっていました。それはちょっと勿体無いなと思って、短い距離を走ったり、投球フォームにつながるような下半身のトレーニングをやりだしたりするようになった。こういう練習が凄く意味がありそうだなって考えて、しっかり丁寧にできるようになったのもあの時期からでした」

 短かった夏。しかしプロに入って思うのは、すべてはあの夏がいまの自分に繋がっているということだ。だからこそ5年の月日が経って、監督だった石原にようやく肘の故障を告白できるようになったのだった。

 日本シリーズの夜。別れ際に山本は石原にあるプレゼントを渡した。それはいま終わったばかりの日本シリーズで着用していたユニフォームだった。そこにはマジックでサインと共に鮮明にこう書かれていた。

「感謝」――。

 あの都城の3年間があったから、山本由伸はいまここにいる。(文中敬称略)

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