甲子園の風BACK NUMBER
「(朗希は)エゴサとかしてた」「30球以上は投げない」大船渡の同級生が明かす“高校生・佐々木朗希”の素顔…あの岩手大会決勝で先発した投手の証言
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph byAsami Enomoto
posted2025/09/26 11:03
大船渡高校3年時の佐々木朗希
夏の甲子園を目指す当時のチームで、投手陣は絶対的エースの佐々木を含め主に5人で試合を回していた。3年生の和田吟太、大和田健人の両投手はいずれも速球派右腕で、2年生前川真斗投手は左腕。サイドスローの柴田さんは、相手打線の目先を変えたり、リズムを崩す“繋ぎ役”としての存在に自身の役割を見出していた。出番は練習試合の2試合目や、県大会では地区予選がメインだったが、その“繋ぎ役”を極めようと努力を重ねていた。
「公式戦で登板がなくても悔しいというより、こいつらすげえなみたいな思いで見ていた。視座は低かったですけど、どうやったらベンチ入りから外れないようにするか、っていうところしか考えていなかったので。緊迫した試合も多かったので、自分の存在意義はその繋ぎ役だと。そこに関しては、入学当初から朗希にずっと言われていたんです。お前は球もそこまで速くないしせっかく変則投手なんだからそこを活かしてやった方がいいよって」
「30球以上投げているのは見たことがない」
インステップ気味の変則フォームで、安定した制球力を身につけるため、柴田さんはひたすら投げ込んだ。それは佐々木からのアドバイスでもあった。
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「朗希にも『とにかく慣れるしかないから、ひたすら投げろ』って言われていました。色々なトレーニングも教えてもらいましたが、1、2年生の頃は特にとにかく投げていた記憶しかないくらい」
逆に、佐々木がブルペンで投げ込む姿は全く見たことがなかったという。練習メニューは本人に任されていたが、3年間を通じて怪物右腕はひたすら身体作りとトレーニングに没頭していた。
「30球以上投げているのは見たことがないかもしれない。15から20球くらいパンパンと投げてあとはランニングに行ったりウエートしたり、飯を食ったり、みたいな。練習試合でも5割くらいの力で投げていたイメージです。今思えば、目標から逆算して、自分で色々と調整していたんだな、と。そこは凄いですよね」
異次元のエースを旗印に進む仲間たちの前に、くっきりとした輪郭で見え始めた大きな夢。そして、“あの夏”がやってくる。〈インタビュー第2回につづく〉

