オリンピックへの道BACK NUMBER

44歳で死去、小原日登美さん“本当の評価”「女子レスリングの歴史が変わった」栄和人氏「どう言えばいいか…」金メダリストの“知られざる壮絶人生” 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byJIJI PRESS

posted2025/07/20 17:01

44歳で死去、小原日登美さん“本当の評価”「女子レスリングの歴史が変わった」栄和人氏「どう言えばいいか…」金メダリストの“知られざる壮絶人生”<Number Web> photograph by JIJI PRESS

ロンドン五輪で悲願の金メダルを獲得した際の小原日登美さん

栄和人氏の証言「壮絶なことになってしまっていた」

 2002年12月、体重を増やして全日本選手権55kg級に出場したが、吉田に敗北。そこで気持ちが途切れると、自身の階級がオリンピックに採用されなかったこと、階級の選択を巡る葛藤などによって追いつめられていった。

 立て直そうにも、どうにも立て直せなかった。当時、小原が在籍した中京女子大学(現至学館大学)で指導にあたっていた栄和人氏は、こう語っている。

「『自分はもうレスリングはいい、もうやりたくない』ってなっていて、どう言えばいいか……自分で自分を痛めつけたり、壮絶なことになってしまっていました」

ADVERTISEMENT

 結果、「あまりの状態に、大学を休学させて実家に帰すことにしました」。

 2003年7月、小原は故郷八戸の実家へと戻った。のちに実家での日々をこう振り返っている。

「ひきこもり同然でした。自分の先はもうないんだ、そんな風に思っていました。体重は、いちばん重いときは74kgくらいになっていました」

 家から出ることなく、ただ食事をするだけの毎日だった。

妹に告げられた「私は引退する」

 それでも再起するときが訪れた。仲間からの励まし、妹からの連絡。カウンセリングも受けながら過ごす中、「戻ろうか」、そんな気持ちが芽生えた。

 年が明けて、小原は出身高校のレスリング部が実施した自衛隊体育学校での合宿に同行する。そこで男子選手の技術を間近に見た。

「まだ自分にはレスリングでやれることがあるんだ、もっと上のレスリングを目指したいと思いました」

 自衛隊体育学校に入隊し、レスリングに復帰。55kg級で2008年の北京五輪代表を目指したが、やはり吉田の壁は厚かった。再びオリンピックへの切符を逃した小原は、08年秋に引退。コーチとなって妹の指導にあたった。

 転機はその翌年だった。世界選手権でメダルを獲れなかった妹に、告げられた。

「私は引退するから、日登美がオリンピックを目指した方がいい」

 その言葉はショックだったと言う。

「妹がそういうふうに言うのはコーチとして勝たせて上げられなかったから。私の指導力不足だったと思ったんです」

 小原は妹に現役を続けるよう説得を何度も試み、一方の妹は姉に現役復帰を促し続けた。

【次ページ】 「ひきこもり」と評した時期を乗り越えて

BACK 1 2 3 NEXT
#小原日登美
#栄和人
#オリンピック・パラリンピック

格闘技の前後の記事