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「野村監督が生きてらしたら…」ヤクルト・高津臣吾監督が語る“野村克也の本質”「ID野球は令和でも通用するのか」今も残る“野村の教え”
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長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byTamon Matsuzono
posted2025/06/16 17:01
生誕90年、没後5年を迎えた野村克也
生前の野村は、打者のタイプをAからDまで4つに分類して、それぞれのタイプに応じた対応策を講じていた。ストレートにタイミングを合わせながら変化球にも対応できる天才タイプのA型、外角か内角か、あるいは直球か変化球かと大まかな狙いを持って打席に挑む無難タイプのB型など、野村は詳細な分析を行っている。
そして、ストライクゾーン、ボールゾーンを「9×9」の合計81マスに分割したチャート表を採用し、配球に対する考え方をバッテリーに指導したのも野村だった。
「右打者のインコースギリギリが30ラインで、アウトコースが70ライン。インコース低めギリギリのストライクが31。例えば(内山)壮真のような若い選手に、“さっきのボールは31だった”と言ってもきちんと会話が成立する。それは野村監督時代から一貫して変わっていません」
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現役時代の高津は、'04~'05年はMLBに所属し、'08~'12年は韓国、台湾、そして独立リーグ・新潟アルビレックスBCと、各地でプレーしている。
「新潟時代には久しぶりに野村野球に触れられて色々なものを思い出しました。アルビレックスBCはヤクルト時代にチームメイトだった橋上秀樹さんが監督を務めていて、野村野球を継承していたからです」
資料はすべて81マスのチャート表
'90~'98年にヤクルトの監督だった野村は、翌'99年から'01年までは同一リーグである阪神の監督となった。その後、社会人野球・シダックスの指揮官となり、'06~'09年はパ・リーグ、楽天の2代目監督を務めた。「野村の教え」はNPB両リーグはもちろん、独立リーグ、さらにはアマチュア球界にまで広く伝播している。
ヤクルト時代にID野球を学び、後に日本ハムを経て、野村がチームを去った後に阪神に移籍したのが野口寿浩だ。
「阪神に移籍したのが'03年で、すでに野村監督から星野仙一監督になっていた頃のことでした。それでも、当時の阪神には野村さんの教えは残っていました。先乗りスコアラーが持ってきた資料を見ると、それはまさに野村流でしたから」
ここで野口が口にしたのが、高津同様「81マスのチャート表」だった。
【続きを読む】サブスク「NumberPREMIER」内の「ID野球は令和でも通用する」監督・野村克也の本質とは何か…高津臣吾らが語る“野村野球”の正体「では、高津野球とは?」《ヤクルト・スワローズ》で、こちらの記事の全文をお読みいただけます。
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