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〈婦女暴行容疑〉“ネイマールが憧れた天才ドリブラー”に禁固9年の最終判決… ロビーニョの“私生活の乱れ”に痛感する教訓

posted2022/01/24 17:01

 
〈婦女暴行容疑〉“ネイマールが憧れた天才ドリブラー”に禁固9年の最終判決… ロビーニョの“私生活の乱れ”に痛感する教訓<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama

2011年、ミラン時代のロビーニョ。ドリブルキングとして日本だけでなく世界的にも人気だった選手だが……。

text by

沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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Takuya Sugiyama

「禁固9年と罰金6万ユーロ(約780万円)」

 1月19日、イタリア最高裁がロブソン・デ・ソウザに下した最終判決である。有罪が確定。実刑で、執行猶予はない。

 ロブソン・デ・ソウザ、通称ロビーニョ。サントス郊外の貧しい家庭で生まれた。6歳で地元のフットサル・チームに入り、テクニックを鍛えた。12歳で、名門サントスのアカデミーに入団した。

 両足で目まぐるしくボールを跨ぐシザース(ブラジルでは「ペダラーダ」と呼ぶ)、股抜き、シャペウ(「帽子」の意味。ボールを高く浮かせて相手をかわす)などの華麗なプレーでマーカーを手玉に取った。クラブ関係者から“天才ドリブラー”と呼ばれ、“ペレ以来の逸材”という声まで出た。

若き日はペレ本人が「自分の若い頃にそっくり」と

 その評判を聞いて、ペレ本人がU-13の練習場へやってきた。キングは「自分の若い頃に、背格好もプレースタイルもそっくり」と相好を崩した。しかし、小さくて痩せているのを見て、家で十分な食事が取れていないことを察知。「選手寮に入れて、十分な食事を与えてやってくれないか」とアカデミーの責任者に直談判した(注:ブラジルでは、通常、選手寮に入れるのは地元以外の選手だけ)。

 以後も順調に成長し、2002年、18歳でトップチームへ昇格してすぐにレギュラー。伝説となったプレーがある。

 2002年ブラジルリーグの決勝第2レグ。サントスがアウェーでコリンチャンスと対戦し、前半36分、ロビーニョが左タッチライン沿いでパスを受けた。

 ドリブルでゴールへ突き進むと、元ブラジル代表右SBロジェリオが立ちはだかる。ロビーニョは、得意の超高速シザースを連発。ロジェリオはズルズルと後退し、ロビーニョが8度目のシザースでボールを左へ持ち出そうとしたところで倒してしまう。判定はPK。当のロビーニョが、GKの逆を突いて左へ決めた。

 このようなファンタジックなプレーを、ブラジル人はこの上なく愛する。メディアとコリンチャンス以外のすべてのファンが絶賛し、「ペダーラ、ロビーニョ」(跨げ、ロビーニョ)というセリフが大流行した。

 翌年、ブラジル代表に初招集され、2005年には推定移籍金2400万ユーロ(約31億円)でレアル・マドリーに加わった。

マドリーの10番、輝かしい未来のはずが

 クラブから与えられた背番号は、エースナンバーの「10」。当時、ブラジルでは誰もが「近い将来、世界トップの選手になる」と予想した。輝かしい未来が待ち受けていると思われた。

 しかし、レアル・マドリーでは主力になり切れなかった。2006年ワールドカップ(W杯)では、4試合に出場して無得点。2008年夏、マンチェスター・シティへ移籍し、最初のシーズンは14得点をあげたが、翌シーズンは鳴かず飛ばず。2009年1月、18歳の女性から婦女暴行で訴えられ、一時は警察に拘束されたが、証拠不十分で無罪となった。

 2010年のW杯に招集され、4試合に出場して2得点。大会後、ACミランへ移籍すると、最初のシーズンは好調だった。しかし、翌シーズン以降は不調に喘いだ。

 そして、2013年1月21日深夜から翌日未明にかけて事件が起きた。

【次ページ】 「僕が申し訳ないと思うのは……」

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