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「忘れようと思いました」10年前 “3.11の決戦” 屋敷伸之vs松尾歩、敗者が失った“途轍もなく大きな何か”とは 

text by

北野新太

北野新太Arata Kitano

PROFILE

photograph byNanae Suzuki

posted2021/03/11 17:02

「忘れようと思いました」10年前 “3.11の決戦” 屋敷伸之vs松尾歩、敗者が失った“途轍もなく大きな何か”とは<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

2011年3月11日も屋敷伸之九段や松尾歩八段をはじめ棋士たちが対局を続けた将棋会館

 松尾は敗北の苦さを暗い夜に捨て去ろうとした。

「ふがいない将棋でしたから、技術的な反省だけしたら酒を呑んで、ただ忘れようと思いました。あのような夜でしたけど、どうしても真っすぐは帰れなかった」

 千駄ヶ谷の将棋会館を出て、新宿の酒場「あり」を目指した。棋士や棋界関係者にとって古くからの憩いの場所だった。

「行ったら開いていて、呑むことができたんです。負けてしまいましたけど、ようやく対局を終えて一息つける、という思いもどこかにありました。でも、店のテレビで被災地の映像が流れていて……。初めて強く地震のことを実感したんです。意識は段々と自分から外側に向かっていきました。何時間くらい呑んだのかな……2時間じゃ終わらなかった気もします」

「あり」の女将は「開けるかどうか悩んだけど、近所の店に言われたんだよ。『こんな時に来てくれる人のために開けなきゃダメ』って。だから開けたよ」と笑っていた。

 グラスを傾けながら、松尾は奇妙な感情に囚われていた。誰も経験したことのないような大きな地震が起き、おそらくは多くの人の命が失われた。自分は今、誇りある席を手にする機会を逸していた。命は失わないが、途轍もなく大きな何かだった。

 明け方の街を歩き、辿り着いた部屋で深い眠りに落ちた。

「あの将棋のことを忘れることはありません」

「僕はずっと、あの将棋のことを思い出さないようにしていました。心の奥に鍵を掛けてしまっていた。でも、今回やっと思い出すことができたのかもしれません。もう10年になるんですね」

 松尾は'17年の竜王戦で挑戦者決定三番勝負まで進出し、羽生善治と名勝負を演じた。1勝2敗で敗れたが、大舞台に肉薄した。A級昇級は未だ果たせず、今期、連続12期目となったB級1組を戦っている。

「もうそんなに指してきたんですか。B1の番人って呼ばれるわけですよね……。今まで一度も上がれていないのは力が足りてないからです。強い人たちとギリギリの勝負を戦えるB1には特有の充実感もありますけど、勝負師である限りは一段上に行きたい、という思いを無くしたくはない」

【次ページ】 2020年、クリスマスイブ。再び……

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