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【新日本との引き抜き合戦】「馬場は半殺しにされるんじゃ…」82年2月4日、伝説のジャイアント馬場vsハンセン
posted2021/02/04 06:00
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
アントニオ猪木と並ぶ、日本プロレス界の象徴だったジャイアント馬場さんが1999年1月31日に亡くなって今年で早22年。『ジャイアント馬場23回忌追善興行』が、2月4日後楽園ホールで行われる。
馬場さんの追善興行は、馬場元子夫人が存命の頃から節目節目で行われ、19年2月19日に両国国技館で行われた『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』では、全日本プロレスのエース宮原健斗と新日本プロレスのエース棚橋弘至のタッグ対決が実現し、馬場さんの終生のライバルであるアントニオ猪木もゲストとして来場した。
今大会については、主催者であり、馬場さんの肖像権管理事業を行う株式会社H.J.T.Productionの緒方公俊代表が「23回忌興行でプロレス興行は最後とし、ジャイアント馬場の冠がついた集大成の大会にしたい」との意向を表明。出場メンバーも“最後”にふさわしく、全日本の現・三冠ヘビー級王者の諏訪魔をはじめ、新日本からは元・三冠ヘビー級王者の小島聡と天山広吉、永田裕志の第三世代トリオ、そして元全日本のBUSHIが参戦。フリーの大物としては全日本で社長も務めた武藤敬司、元・三冠ヘビー級王者の鈴木みのる、新人時代に馬場の付き人だった大仁田厚、越中詩郎が参加。さらにオープニングゲストとして天龍源一郎の来場も決定し、馬場の名の下に団体の垣根を超えた豪華メンバーが集結することとなった。
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そして大会が開催される「2月4日」にも、大きな意味がある。この日は、1982年に東京体育館でジャイアント馬場とスタン・ハンセンが初対決を行った日。この試合こそ、その後の馬場と全日本の運命を変えたきわめて重要な一戦だったのである。
新日本にブッチャーを引き抜かれ、全日本の反撃が始まる
その意味を理解するため、まず当時の状況を整理しておこう。80年代初頭、馬場と全日本プロレスは苦境に陥っていた。70年代から際立ちはじめたライバル団体・新日本との勢いの差はさらに広がり、81年4月に初代タイガーマスクがデビューし人気爆発すると、その差は決定的となる。このとき、エース馬場はすでに43歳。レスラーとしては完全に下り坂に入っており、全日本の巻き返しは不可能と思われた。
そして新日本は81年5月、長年目の上のたんこぶであった馬場・全日本にトドメを刺すべく大仕掛けに出る。全日本のトップ外国人レスラー、アブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜いたのだ。しかし、これはやぶ蛇だった。引き抜きという“掟破り”は、眠れる巨人・馬場の怒りを呼び起こし、黙っていれば弱体化していくだけと思われた全日本に、反撃の口実を与えることとなったのだ。