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「どこの鈴木やねん」から始まって…こうして20歳の鈴木一朗は“イチロー”になった《誕生秘話》
text by
石田雄太Yuta Ishida
photograph bySankei Shimbun
posted2021/01/11 11:01
8回に逆転打を放ち、帰りのバスで仰木彬監督に祝福されるイチロー
ついに「一朗」から「イチロー」へ
そして迎えた、20歳のシーズン。開幕を間近に控えた3月26日、オリックスは中日と愛知県の豊田でオープン戦を行なった。
2番の鈴木はこの試合、中日のドラフト1位、平田洋からセンターヘ特大の満塁ホームランを放っている。この時点での打率は.338、ホームランは2本。誰の目にも開幕スタメンは間違いないという勢いが、このときの鈴木にはあった。
そこで、仰木が閃いた。新井がこう振り返る。
「オープン戦でとにかく打つもんですから、私も仰木さんに『アイツはスーパースターになりますよ』なんて言っていたところへあの満塁ホームラン。あれで、コイツは間違いなくやるわと確信が芽生えました。
ところが、当時のパ・リーグはレギュラークラスに鈴木姓が多くて、打っても目立たないんですよ。近鉄には貴久が、西武に健が、日本ハムにも慶裕が……新聞の打撃10傑を見ても、鈴木、鈴木、鈴木って並ぶ。これじゃ、ウチの鈴木が打っても『どこの鈴木やねん』となるでしょう(笑)。
だったら、『鈴木』じゃなくて、『一朗』でいこうかと仰木さんに言ってみたんです。それも、一人だけじゃプレッシャーになるから、佐藤和弘の『パンチ』と併せて、カタカナの『イチロー』でいこうと……仰木さんは当時、“パ・リーグの広報部長”と呼ばれていた人ですから、注目を浴びる仕掛けは大好き。『お、そうか?』なんて言って、すぐに乗ってきましたよ(笑)」
広報担当には「何百万の札束みたいに……」
鈴木一朗から、イチローヘ──20歳のとき、彼は二つの名前を背負うことになった。
そして、伝説は生まれる。
驚異的なペースでヒットを量産したイチローは、6月29日の近鉄戦で4安打を放ち、打率を4割に乗せて試合を終えた(.407)。
世の中のボルテージは一気に上がる。当時、オリックスの広報担当だった横田昭作(現在、オリックスの球団副本部長)はその夜、大阪のホテルに戻ったときのことが忘れられない。